令和4年(コロナ禍)の岩手の山車まつり


(はじめに)

 令和4年は紛れもなく「祭り復活」の年であり、コロナに止められていた山車行事が「3年ぶり」を高々とうたって続々蘇った。私も3年ぶりに、私らしい書き方で楽しく描写したい。

(特設項は以下3件)

一戸まつり  いしどりやまつり 岩手町秋まつり



令和4年のいわての山車祭り@北上市黒沢尻

 北上市黒沢尻の火防祭は、令和3年の形を基本的には踏襲しつつも子供を加えた催事となり、短時間を感じさせず参加者も観客も増えた感がある。子供が加わったのは12区で、音頭に手古舞の踊りや纏振りが伴われ、神社での奉納後は手押し車のみで午前中いっぱい地区内を回った(運行は車道・披露は歩道で)。大太鼓の代わりなのか鋲止めの太鼓もひとつ加わり、正味1時間ほど・正午頃まで神社界隈にお囃子を響かせている。3区は神社の境内に昨年と同規模で置山『龍虎相討つ』を作って、夕方頃までお披露目した。(4月24日)
 なお翌週の日高火防祭(奥州市水沢)は3年連続の中止で、「代替行事」をうたった厄年連の演舞は屋内で実施・関係者のみに公開された。街路での催しは5月3日の「春の駒形まつり(子供騎馬武者行列)」・中心市街地の賑わいは9月の「第1回奥州秋まつり」にて久々に戻っている。


令和4年のいわての山車祭り@八幡平市大更

 大更の八坂神社例大祭(八幡平市西根)は令和3年もほぼ通常開催・本年も同様に14日が前夜祭・15日が本祭であった。今回初めて前夜祭を見に行ったが、神社前の出店は準備万端であり(開店はしていない)、山車は夕方に2時間弱動いた。山車を止めての音頭上げも比較的多かった感がある。子供の掛け声はほぼ無かったが、それがコロナ対策ゆえか元々の作法(例えば本祭の神社奉納以降に掛け声が加わる等)なのかはわからない。なお八坂神社に入る際は必ず検温・消毒が促され、山車では参加者のチェックシート管理を中学校と連携しながら徹底した。
 眼目は新作見返しのお披露目で、大人っぽい端正な顔立ちに品のあるきらびやかな衣装をまとった『一寸法師』が上がった。目線を横に向けた人形で、その先に雨除けのビニールが束ねてあったのだが、それが趣向の一部として機能したような印象がある。「椀を船にし漕ぎ出す法師〜」の音頭は絵紙に載り、盛岡や葛巻でも上げられた。正面は前年10月に盛岡の町を歩いた『鍾馗』で、鬼は若干起き上がって外に付いた。桜は少なめだったが短冊のキラキラがいつも以上に際立って見え、山車への感度が格段に良くなっているのを自覚した。(7月14日)
 なお同市寺田の白坂観音例祭では、山車は運行無しで境内に展示されたという(伝聞:題材は『鍾馗』)。



 江刺甚句まつり(奥州市江刺)は通常期の開催が延期となり、7月中旬に開催された。町内屋台は不参加だが年祝連の花車2台は街路に出て、祭典当日は3カ所で演舞している。ただし移動時は無音・無人での移送となった。大通公園お祭り広場では例年に近いステージイベントがあり、入口出口は固定で年祝連の名前が入った団扇が入場証の代わりとなった。露店は役場前に集中して出て「テイクアウト」が推奨された。祭典として告知・実施されたのは土曜1日のみだが、翌日に年祝連の市内巡演が行われた。(7月17日)
 他、前沢の春祭りも時期をずらして初夏に「前沢まつり」として実施されたという。(伝聞)



 千厩の夏祭り(一関市)は7月22日、開催10日を切ったところで急遽中止になった。当時の急激な感染拡大を踏まえるとやむを得ない措置ではあったが、以降の行事も同様の処置をとりかねず、「祭り復活の年」は一気に危うくなった。さんさ踊りの中止を求める投書が岩手日報に載ったりもした。
 …結果的にはこの危機感は杞憂で終わり、翌週の一関の夏祭りは予定通り実施となった。



令和4年のいわての山車祭り@花巻市大迫

 大迫では盆の14日と16日、例年通り4台のあんどん山車が動いた。
 山車が集合するイベント(音頭共演・盆踊り)と仲町での郷土芸能披露は無しで各組山車の自由運行のみの祭りとなり、それに伴って山車の出発時間が組によってバラバラに、おおむね遅くなった。例えば上若組は午後5時半に出発・中心街を往復するのみのコースとし、下若組は交通規制がかかる午後7時時点では中心街に現れず、地区内の新盆の家を回る等している。これは本来の形への回帰ともいえ、例年に無くのんびりした時間の中であんどんの絵柄や音頭上げ・太鼓や笛がしみじみ心に染みた。若衆組は音頭を拡声せず合いの手のみを拡声、他も運行中の子供(引き子・太鼓)の掛け声は無しで、代わりに題解説や感染対策のアナウンスが各組ごとになされた。
 表側の趣向は例年通り両日で完全に変わったが、見返しについては飾りの一部の入れ替え・付け足しでの対応が2件出た。『普賢菩薩』は前の年の置山の題なので少し気になったが、絵も色彩も改まったように見える。コロナ禍を反映した演し物は、若衆組14日の『鍾馗』と下若組16日の『八岐大蛇』。(8月16日)



 県北では九戸まつり・一戸まつり・二戸まつり・軽米秋祭りが、コロナ前の規模での復活を叶えた。
 九戸まつりは16日からの戸田の祭典が3日間、17日からの伊保内の祭典も中日を含む3日間開催出来、山車も3つ揃った。下町町内会の平三山車は表は初出の趣向、見返しは人形2つに乗り物2つの表並みの豪華版であった。上町若者連は八戸鍛冶町の令和元年『坂上田村麻呂』の再構築、南田町内会の『天岩戸』は完全な新出し趣向のように思われる。いずれも例年以上に華を感じさせる秀作であり、引き子・囃子方とも全員マスク着用ながら元気よく運行した。
 芸能では荒谷獅子踊りと小倉七ツ物舞が欠席、前者は獅子の装束を着た子供一人・後者は団体の幟のみを行列に付けた。九戸神楽は江刺家神楽が代行した。飲食は会場中ほどのお祭り広場に限られ、入場時に検温・消毒が徹底された。(8月17日)

令和4年のいわての山車祭り@二戸市

 二戸まつりには例年山車9台のところ8台が参加、市役所おまつり同好会のみ欠場した。初日は川又が休んだが、以降は揃って運行出来、日程も例年並みであった。子供の掛け声の代わりに、男女一組で「よーいさ、よいさ」を掛け合う形がかっこよかった(は組・下仲町)。
 平三山車3作は、地元二戸では起き上がり・折り曲げをほぼ封印している。『加藤清正』のみ岩山が上がったものの、他は通常の高さに合うように常に見える月や雲が飾られた。八戸山車化が進みつつあるともいわれる中、出場した半数が形を変えない・終始主役を隠さない山車であったことに明瞭な意思を私は感じ、そうした中の一つ 五日町町内会の山車を特に楽しんで見た。
 7月のこともあり手製の銃火器で権力者を狙うような山車趣向はもう見られないだろうと思っていたので、生誕周年の年に・地元で、この題が出たのは嬉しい(写真)。白塗りの主人公たちは歌舞伎山車のような味わいがあり、大砲の構えはバズーカみたいだが、支える手の形が整っていて心地よい(大砲の中・導火線の行方にこだわれたら尚良かった)。見返しは『道成寺』で、清姫はかつて表を飾った大人形を使った。ゆえに本来は上がるべき鐘の隣で踊っており、袖を顔を隠すように上げている。顔が見えたり隠れたりして、これが大人形の違和感を除く仕掛けになっていた。
 例年同様、やはり足早な祭りだった。ただ八幡下の解散式を終え三々五々自町に帰る一景は思いの外ゆったりで、仄かに灯が点る等し、自町に至って拍子が変わって音頭が上がる等もし、橋の向こうに見える遠景の那須余一が心なしかゆっくり動いている気もした。市民会館下の出店群の充実ぶりも知れて、終わってみたら実に良い一日になった。(9月4日)
 なお二戸市内で人形山車が出たのは福岡だけで、米沢・堀野・浄法寺は無し、石切所は前年に続き屋根付きの「金勢山車」のみの出場となった。(伝聞)

 軽米町の秋祭りも例年通りの山車台数(6台)・日程(3日間)で催され、盛況だったらしい。現状では青森の八戸から借りた山車が半数強だが、その八戸で通常の山車がほぼ作られなかった当年は、新作(本町)や再構成(下新町)・置山の拡張(上新町、大町)など意欲的な支援が際立った(伝聞)。


 野田まつり(九戸郡野田村)は、山車を出さない中日を削って土日2日間の開催となった。水を被る等賑々しかった練り神輿は今回は自粛で、行列には神楽と山車3車が揃った。運行の仕方もおおむねコロナ前と同じで、休憩がやや少なめな感じはしたものの、電飾下での夜間運行もされたようである。なお自作山車の下組の題材は『陰陽師二世』で、コロナ禍初年に二戸の在八町内会が採った場面と同じではないかと思う。
 祭典前日の岩手日報には、一面に大きく上組の『加藤清正』が掲載された。間に武者が一人居るところまでネタバレしたが、広く県民と平三山車の魅力を共有できた喜びのほうが大きい。実見し、その魅力は確かであった。出店は神社前と役場前に出て、荒海ホタテ焼きやウニ飯など久々にたくさん買い込んだ。(8月28日)

令和4年のいわての山車祭り@野田村


 近隣の洋野町大野・下閉伊郡普代村でも山車行事が復活し、それぞれ手作り山車2台が繰り出した(報道・伝聞)。


令和4年のいわての山車祭り@紫波町上平沢

 紫波町では私の地元日詰まつりが、「完全山車抜き」で催行された。露店は初日と最終日は神社の境内に・神輿が町内一円を回る中日だけは商店街に出た(同日夜は歩行者天国にし、例年と同じく夜間の渡御を実施)。赤沢神楽は初日の夕方に新造の社殿内で2曲、それに先立ち社殿の前で山車4組が一曲ずつ音頭上げをした。新社殿を褒める歌詞が多かったように記憶している。櫻組(練り神輿)の木遣りがこれに加わり正味15分、観客10名ほどで虚しさだけが残った。中日は昼過ぎ時点で商店街への露店出店がおおむね整い、オガールエリアでは橋本組が太鼓・音頭上げを披露した。町の広報によると、館内には山車人形『川中島』を展示したようである。夜間渡御の時間帯にも有志によるお囃子披露があったそうで、一番組の『外郎売』(平成30年見返し)が人形のみ傍らに置かれ、花を添えたという。(9月2日〜3日午後2時頃/3日夜の様子は伝聞)

 同町内志和八幡宮の例大祭は例年並みの2日間開催で、山車は令和元年の盛岡一番組『坂田金時土蜘蛛退治』を潰し付きで乗せた豪華版・蜘蛛の目玉がすごく派手に点滅していた。金時の組み方は失敗だが、背景には新たに蜘蛛の巣が張られ、足元の潰し武者がかなり効果的な体勢を作っていて立派であった。音頭歌詞も多数自前で作ったようである。
 なお、小学生の参加が見送られ、その影響で小太鼓は3人・笛は録音源に戻った。(9月8日)

踏み込む金時 魔物のねぐら 葛城山の 蜘蛛退治
(見返し)鯔背すがたの 手古舞前に 勢い山車引く 志和まつり



令和4年のいわての山車祭り@花巻市

 花巻市の花巻まつりは3日間から2日間に短縮され、日程も夕方から夜の初めに凝集した特別な構成となった。出場した山車は8台で、他に若葉町が山車は作ったものの集合行事には参加せず、町内での公開にとどめた(未確認・題材不明)。また連合パレードは両日とも日の落ちていない時間帯の実施であり、眼目の生の炎があまり活きない形となった。それでも各山車に作り込みが見え、丁寧なもの・手の込んだものが散見されたのは良かった。特に花北地区の神話ものは、前回(令和元年の『岩戸開き』)も今回も出色だったと思う。
 山車の代わりに夜景を使ったのは鹿踊りのかがり火演舞だが、例年他市町村から数十団体招くところを市内のみにとどめたため6、7団体の参加であった。それに比べると神楽の参加は例年並みで、駅前なはんプラザでの芸能鑑賞会も盛況であった。例年大量に出る樽神輿は今回は自粛で、産業祭り会場に一斉展示された。
 集客は夏・秋含めて県内一といってよい。そのぶん感染対策の緩みも大きく、中心街に観衆が密集し、中にはマスクの無い観客も多く、会場飲食厳禁の但し書きは徹底されず食べ歩き飲み歩きが多かった。(9月11日)
 同市内では前述の大迫・石鳥谷のほか旧東和町土沢の秋祭り(鏑八幡神社例大祭)もおおむね例年通りの開催となり、例年3組が参加するところ中下組・駅上組の2台が繰り出し、夜は大声を伴う「山車の掛け合い」も実施された。中下組の山車は小姓弥生を添えた2人形の鏡獅子・見返しも表並みの加藤清正と、3年ぶりならではの豪華さであった。(9月17日)



 県都盛岡市では6月のチャグチャグ馬コ・8月の盛岡さんさ踊りが万全の感染対策のもと十分な規模で開催された。特にさんさ踊りは、観客用通路を大きく確保して密集を徹底して避けつつ賑わいを損なわない、東北有数の感染対策の上手さであった。ために9月の八幡宮例大祭にも期待が高まったが、結果として14日の日中のみ・台数2台(新作趣向3件)に「とどまった」のは複雑な気持ちである。どうしても「他」との違いを感じざるを得ない(…シティマラソンが通常開催され、尚更そう感じる)。
 出場2台を見終えてまず感じたのは、「これが7台8台の中に在ったらどう見えたか」との思いであった。特に牛若弁慶は、ライバルと並んでこそ勝負が生まれる山車だったと思う。格納庫は設けられず、推進会の山車は八幡宮の資料館にそのまま収まった。火消し保存会については、前夜に駅前「か組」エリアの一角で、ビニールシート一枚を上にかけ工事用の作業灯に照らされつつ仕上げられる様子を見た。この一景以外には祭日ならではの”マツリの広がり”をあまり感じない前日・当日であったし、「これが3日あったら大変…」との参加者の声には神経質に過ぎるが少々危機感をおぼえた。音頭歌詞のレベルや絵紙の扱いも含め、これが非常の形であることを忘れずにいたい。
 祭典広告に占める山車の記事の小ささにも愕然としたが、当日夕方の県内ニュースにこぞって運行の様子が取り上げられて少し安心した。(9月14日)

 

五條橋 /見返し 一寸法師 【盛岡山車推進会

逆光だが、牛若丸の顔があの人形でないように見えるのでこの写真を選んだ(令和4年のいわての山車祭り@盛岡市)

加茂の流れに 主従の契り 男弁慶 心意気
(見返し)鬼を諫めて 木槌を受けて 振って六尺 幸せに

※従来の作例


椀を船にし漕ぎ出す法師 赤鬼退治とひと暴れ(岩手県盛岡市令和4年9月14日山車音頭)京の五條で牛若丸が 弁慶相手に打ち負かす(岩手県盛岡市令和4年9月14日山車音頭)

(題紹介)「牛若丸」のちの源義経と、その一の家来「武蔵坊弁慶」が出会い、腕比べの末主従となる有名な物語。本作は、弁慶を明るい緑の着物と白塗り・隈取で歌舞伎ものに作っている点が珍しい。
 山車推進会の山車組としての祭典参加は、昭和56年以来通算2回目。歌舞伎仕立て以外にも色々挑戦があり、その最たるひとつが牛若丸を表用の大人形(本組H26・黒沢尻十二区H27等)で作り、位置を変動をさせずに跳ねる姿勢と方向で距離感を表現したこと。斬新な中にも昔ながらの鉢巻・七つ道具が、弁慶を懐かしく見せてもいた。牡丹の傍に、布製の蝶々がたくさん遊んでいる。
 見返しは、絵のように端正な一寸法師。7月に大更で初公開・祭典翌週にはくずまき秋祭りに登場しており、ここに掲載したのは葛巻で上がった音頭の歌詞である。




車引梅王丸/見返し 菖蒲浴衣 【南部火消傳統保存会

舎人梅王道真守り 花の見得切る車引き(盛岡八幡宮祭典山車令和4年)

時平・梅王 吉田社前の 歌舞伎の見得は 車引
梅に桜の花 散る里に 緑変わらぬ 松の風

※従来の作例


(題紹介)菅原道真に仕えていた舎人の梅王丸は、道真を陥れた左大臣時平の牛車を見つけて勝負を挑む。三つ子舎人が牛車の大輪の前でにらみ合う歌舞伎の名場面。
 梅王のみを上げるのは盛岡では珍しく、他町のように見得を改めず「石投げ」のままにしたのも珍しい。目配りを吟味し、体はくの字に曲げて足を浮かせ、役者が苦心する指先の描写まで見えるようにした。端正ではないが、ふた色の両下げ桜も含め昔ながらの河北の山車の味わいを久々に感じた。
 見返しは河南山車の旧作で、ゆえに空きすぎた背景を埋める一手が打てなかったのだと感じる。各組の提灯が一張りずつ並ぶ景色は、歌舞伎の山車だとあまり奏功しなかった。絵紙はきちんと描いたものでなく、既存の作の切り貼りという前代未聞の珍しい仕上げとなった。


◎イオンタウン盛岡 秋祭り山車特別展示(2022.9.4)
風流 矢の根(岩手県盛岡市)見返し 金太郎(岩手県盛岡市)

(題紹介)盛岡の歌舞伎山車でも最も華やかなひとつで、筋隈取・荒事姿の曽我五郎が仇討ちのため大矢の鏃を研ぐ舞台幕開きの景。
 令和2年の「特別展示」「特別運行」の趣向で、2日間前潟イオンに展示された後、解体・格納を経てくずまき秋祭りに出張した。会場では戦前戦後の白黒写真パネルが複数展示され、絵紙風のチラシ(A4サイズ)も出ている。



令和4年のいわての山車祭り@久慈市

 久慈秋祭りは1日のみの実施で、山車は8組中6組が参加、運行でなく展示・実演による開催となった(青森県内に同様の実施とした所がいくつかある)。見物当日は十八日町でバスを降りたのが13時過ぎで、この時点ですでに中心街各所でお囃子が鳴る賑々しい雰囲気が出来ていた。
 各組山車の位置は固定で、市日通りに3台、道路を挟んだ銀行の前に1台・薬局前に神輿、中組は山車小屋前、備前組はやませ土風館と、徒歩2分圏内に集めた。20分ほど太鼓・音頭を披露し休憩…を1時間ごとに灯がともる時間帯まで繰り返したという。休憩時は山車は全開で、囃子が始まる直前に閉じ、せり上げもパフォーマンスに含めて披露された。
 実感としては、パレードを追って聞くよりじっくり囃子を楽しめ、組ごとの比較も出来て有意義であった。開演・終演のタイミングがバラバラだったので、複数の組の演技を効率よく見分けたり、重ねて見たりもできた。運行時に拡声される大人の掛け声が省かれたことで、かえって子供の元気な声や太鼓のタメがよく味わえた。子供が叩くにはかなり撥の使い方が細かく、難しい囃子だと思う。山車自体も細部に目が届き、例えば「に組」の台車最下部に昔話の立体飾り(桃太郎・金太郎・かぐや姫などを複数の場面で)があること等に気付いた。
 イチから趣向を作った組は少なく、2組は令和元年の題材をそのまま(見逃したのが奏功した…笑)、『車引』は平成30年の部材による再構成、備前組は昨年秋に新作し土風館に1年展示した鰺ヶ沢合戦の山車を使った。残りのめ組『鍾馗さま』・上組『加藤清正』と、に組の見返しがたぶん新作である(うち上組の見返しを飾った鍾馗が出色であった)。朋友会(練り神輿)は展示区画内で神輿を担ぎ、長く研究・実践されてきた我流の三社囃子がよく活きた一景であった。
 人出は、私が見た時間帯については例年ほどではなかった。眼目の市日通りから中の橋にかけての出店群が無いのが大きいのだと思う。ただ一番人気の大阪のカステラ屋(萬世楼)には長蛇の列が常に出来ていて、購入を断念した。(9月17日)


令和4年のいわての山車祭り@一戸町(小鳥谷)

 一戸町では、9月には小鳥谷まつりも復活した。山車は例年は2台だが当年はに組の1台のみ、夜間電飾が際立つ時間帯まで運行したようである。趣向は完全自作の『甕割り柴田/お市の方』で、日詰製の頭。構図は槍の石突を手前に伸ばすなど従来に無い形で、お市の趣向もきちんと物語を描けている。衣装や顔の出来から考えて、もっと自由に、出たことの無い題材用に使っても良かったのかなとは感じた。桜に沼宮内以南と同じ短冊が付くようになったのは、そういえばいつからだろう。絵紙も例年通り作られ、勝家の思いを「乾坤一擲」と謳っている。
 久慈の秋祭りと同日であったため動く姿の見物は断念、初日の午前中に出かけると高屋敷神楽の門付けを数件分見られたので、それはそれでよしとした。(9月17日)

 岩手郡の秋の神社例大祭のうち、山車を伴ったのは葛巻と沼宮内である。川口は3組の音頭奉納と神楽・狐踊り・さんさ踊りの奉納にとどまったが、川口神楽は大変な熱演だったらしい(伝聞)

令和4年のいわての山車祭り@葛巻町

 葛巻町の八幡宮例大祭は例年並みの2日間・山車4台と芸能3組で開催され、うち2日目に見物に出かけた。午前中は例年通り繁華から遠い地域に山車を持ち込んでの披露が行われ(少なくとも2組)、昼過ぎには秋葉神社を発した神輿行列に茶屋場組の山車が供奉した。初日は例年のように4台揃って続いたようだが、2日目は明確に各組バラバラに動いている。それでも門付けコースが近いので、おのずと山車が市街に集まり遠景で交差した。神輿は頻繁に止まり、その都度各家々の恭しい奉納と、それを祝う権現歯打ちが華やかに展開された。
 飾り方が見事だったのは、浦子内組の『巴御前』である。一戸ではおおむね省かれた薙刀を、新たに作り、角度も変えて付けた。松が強調された葛巻ならではの大きな飾り方は野趣があり、非常に見応えがした。下町組は数ある中から令和元年・令和2年と各所に登場した『矢の根』を選び、上部に藤の花を5つ規則的に並べ歌舞伎の白い顔・矢の色味との対比をうまく演出した。見返し『一寸法師』にも淡い紫の背景を合わせ、より絵のような見栄えとなった。山車小屋はずいぶん繁華から遠くなり、除雪車用のシェルターの一部にブルーシートを張って格納庫としていた。初めて聴く「納め太鼓」を含んだ納めの儀式が終わったのが、19時半頃と記憶している。
 門付け・絵入り手拭いも例年通りで、浦子内組がやや一戸盛岡の絵紙を踏まえた装丁となった。踊りもたくさん披露され、「ツバメ」は初めて、「さんさ里唄」は久々に聞いた。貸出先の一戸では見られなかった夜の姿も、当地で十分堪能できた。(9月25日)

優れた武勇と 美貌を宿す 巴御前の あですがた
鬼神のごとき 巴の御前 薙刀かざす 勇ましさ

 








※以下は番外・周辺県編
令和4年のいわての山車祭り番外@青森県八戸市

 青森県南部地方の山車行事は、本元の八戸三社大祭が著しい縮小開催であったわりに各町ごとの判断で制作・運行が行われ、かなり充実したようである。
 八戸市については、参加全団体が限られた区画の中で人形趣向を作り、支庁前で合同展示された。七福神や大鬼ものが重なるなどしたものの、中には古態回帰を思わせる秀作もあり、当地の山車作りの確かさを例年以上に感じる機会となった。以降の貸出先ではこの時の趣向を拡張した山車が登場しもした(青森県東北町、岩手県軽米町など)。なお夜間は、全作同じ照らし方でライトアップされた。
 例年規模の山車は1台で、全山車組の共作という。趣向は『源義経蝦夷渡海』で、起き上がりの波が北斎の浮世絵のような非対称の形で珍しい。7月31日の夕方から1日のみの運行で、太神楽・虎舞1組ずつに「華屋台」が先行するパレードはなかなか見ごたえがした。山車の太鼓が鳴って笛が響いたときは、感極まるものがあった。山車の引き綱は今までに無いほど長く、全ての山車の法被がその中に揃った。
 一昨年に置山展示場所となった中心街のマチニワは、当年は郷土芸能披露の場となり、重地太神楽や笹の沢神楽が階段状のステージを上手に使って盛り上げていた。出店は例年通り、支庁前にたくさん出た。また本八戸駅前通りには人形趣向の一部が点在し、例えば寿司屋の窓に鯉の尻尾が波と共に付くなど非日常の楽しい景観を見せた。(7月31日)

令和4年のいわての山車祭り番外@青森県三沢市

 三沢まつりは例年の土曜の催事を省いて金・土・日で開催、例年15台出るところ当年は8台にとどまった。出発地点に全山車が集まるのでなく行列に途中から各町が入っていく形が取られ(見物時点では理解が及ばなかったが、石鳥谷祭りを見て同じだと気付いた)、解散時も横断帯を挟んで各自入れ違いつつ散っていく形であった。それでも自作山車が各々囃子をかけつつ運行し、街路で展開を披露できたのは素晴らしい。三沢の音頭上げは山車に乗ったまま、上げ手がわからない形で行われるのも発見できた。最終解散が16時頃で、頼光妖怪退治と狐忠信を飾った最後尾の山車をその後しばらく追った。(8月21日)

 さんのへ秋祭りは例年より3週遅く10月頭に、1日だけの開催となった。実はコロナ前から台数が減りつつあったそうで、今回は計6台が出場、駅から見て奥側(同心町方面)から出発し、三戸病院前で折り返し、ここで元木平の山車が他5台を見送る形をとった。審査・表彰は無かったように思われる。引き子のマスク着用が際立って厳守された印象であり、子供の掛け声は少なく、小太鼓が一生懸命かけていた。当日の門付けや飲酒を伴う会合は厳禁で、音頭箇所は三社の前と事前に決められた1か所の、計4カ所となった。内外から客が押し掛けるというよりは、町内のファンで楽しみ、祭典開催を歓迎している印象であった。
 神輿は伴わず山車6台に「斗内獅子舞(三戸神楽)」が先行するのみだったが、この獅子舞の演舞回数が例年のイメージからして非常に多く、路上用の演目以外に『鳥舞』『番楽』『盆舞』なども5分程度に縮めて披露した。舞い方も収斂されたせいか、個性がより際立って見え見応えがした。(10月2日)

 以下、把握できた分の当地域各町の動向(八戸市以外)。

【合同を含む山車運行】三沢市(8台)、東北町上北(7台)、七戸町(10台、 2日間)、三戸町(6台)
【合同を伴わない山車運行】五戸町(前夜祭のみ)
【山車制作・運行でなく展示】五戸町(本祭3日間、うち2日は夜・1日は昼)、十和田市(19団体中7団体、山車上でお囃子、入退場ゲート設定)、おいらせ町(下田から3台、百石から1台)
【山車制作無し・囃子共演等の実施】六戸町(1日、3団体参加)、東北町乙供
【山車制作無し】野辺地町



令和4年のいわての山車祭り番外@青森県青森市

 8月上旬の津軽のねぶた行事はおおむね復活したものの、台数減・それに伴う運行時間の短縮、個々の動き方の変更やルートの短縮などはあった。
 弘前ねぷた祭りは例年の半分以下の30数団体の参加・例年22時ころ終わる駅前合同運行は20時半で終盤にかかった。それでも団体間の距離はものすごく空いていて、消毒を呼びかけるスタッフがねぷたとねぷたの間に必ず付いた。翌朝の午前運行は10基ほどの参加で(これは例年規模かも)、定位置で見て行列が通過しきるまで30分ほどであった。現地を訪ねて初めて、昨年一昨年も「ねぷた速報」が発刊されたこと・令和3年については町内運行は許可され実に37団体で実施されたことなどを知った(その成果がタペストリーとして市内店舗に展示された)。当年も、合同運行には加わらず町内のみを運行した団体が多数あったようである。(8月6・7日)
 青森ねぶたは例年比5台減、令和3年にお蔵入りした趣向も含む17台の出陣であり、これにクラウドファンディングで作った共作のねぶたが加わった。ねぶたの出方は変わったようだが、7日の昼運行についてはルートもボリュームも例年と遜色無く、小屋へ戻ってくる時刻も15時前と例年並み。ただ、ハネトを伴うねぶたは多くなかった。趣向では、芳年の錦絵を巧みにねぶた化したカモメの飛ぶ『敦盛と熊谷』、左右に虎を配した『豪傑武松』、送りネブタでクラゲを伴う海中の天女や恵比須大黒のコロナ退治(豆撒き)、鍾馗は2作のうちより大きく堂々と構図を作ったJR版が印象的であった。(8月7日)
 五所川原立佞武多は台数はほぼ例年並み、ただ運行コース短縮・複数地点での一斉スタート方式が取られたため、祭り自体が1時間以上早く終わった(全ねぶたの格納が完了し灯が消えたのが、20時10分であった)。写真ではなかなか魅力が伝わらない『かぐや』が、止まっていても動いていても・遠くからでも近くからでも映える名作だとわかったのは収穫であったし、悪趣味ではあるが平将門の死体に横から首が付いていく『祟り神』も面白かった。(8月7日)

 他、黒石ねぷた・平川ねぷた・田舎館ねぶた・大湊ネブタもほぼ通常開催、つがる市のねぶたは例年の半数ほどの参加で開催されたようである。



令和4年のいわての山車祭り番外@秋田県秋田市土崎

 秋田の土崎港曳山祭り(秋田市)には例年通り、夜の「戻り曳山」を目がけて訪ねた。神社前の置山であるとか駅前の電飾は無かったものの、町の様子が思った以上にいつも通りで驚き、出来るだけ出店の出ていない人通りの少ないエリアで見物した。マスクなしの大きな掛け声だったり音頭だったり、地べたに置かれた引き綱を不特定多数で掴む・観客のギリギリまで引き子が迫るなど、この町の曳山作法はなかなか感染対策と両立しづらい。そこに恐怖を感じてしまう自分が、寂しかった。
 最初に来た倶利伽羅峠の曳山は手が込んでいて、馬に乗った巴御前もそこそこ女性の顔に見えたし、木曾義仲が顎髭を生やした荒武者なのもよかった。中盤に見た新田義貞は褌一丁でザンバラ髪、その傍らで竜神が目を光らせたりしていて面白い。最後の曳山は雪中で悪僧と戦う佐藤忠信で、義経が蓑笠姿であったりとなかなかだったので、この山車が明るいところに出てくるまで見て帰ることにした。
 普段より大分手前側の町が今年のトリになったといい、曳山を出さず会所で出迎えをする町内があったり、ひとつの曳山に複数の町の提灯が下がっていたりというのが当年ならではの景なのだと思う。(7月21日)

令和4年のいわての山車祭り番外@秋田県仙北市角館

 角館(秋田県仙北市)では2020年も2021年も絶やさずに山車人形を新作していたので、3年ぶりの運行となった当年もその蓄積が活き、従来通りの開催が叶った。山に乗らず街路に飾られた山車人形も見どころが多く、『碇知盛』は烏帽子に髭・傍らには蝶の紋の入った平家の赤旗が添えてあり、『八幡太郎義家(ゆはずの泉)』は盛岡型と違う弓を掲げた構図で作られた。飾山の人形では『お祭り』『羅生門(羅城門の鬼退治)』『不破』が上出来、特にも羅生門は鬼が仏像風で羽衣を纏っているのが他に無い。綱は原色の緑と黄色の着物で舌を出しており、夕景で特に映え、怪しさを増す一作である。『時今桔梗旗揚』は一見仁木弾正に見えるのが明智光秀で、傍らに斎藤利三が控え、題解説を見ると「織田信長安土大饗応」(平成28年一戸橋中組)の続きの場面のようである。置山には大河ドラマを反映してか、『富士の巻狩り 2つの事件』が飾られた。
 感染対策については土崎と同じような感想だが、当該期間に秋田で感染が急増したような話は聞かない。多分あのまま例年通り、明け方まで盛り上がったのだと思う。(9月9日)



…以上、3年ぶりの各所の賑わいを振り返り、今その一端に触れられた幸せを噛みしめている。各地、出来るギリギリの範囲をよく見極めながらマツリを取り戻したことにただただ感動し、感謝の念でいっぱいだ。山車を伴わない催事としては、日高神社胆江神楽大会(奥州市水沢)・大杉神社神幸祭(下閉伊郡山田町)を初めて訪ね、大いに楽しめた。前者は芸能に寄り添う案内役の在り方について、後者は催行の形の自由さ・楽しさについて、大いに目を開かれた思いでいる。
 一方で、令和2・3年の祭典自粛の有効性、妥当性について考えなくはない。当年において、感染者数の増減と祭典・イベントの有無は明瞭に繋がるのか、…仮に無関係だったとしたら、それは各位の努力のたまものではあろうが、過剰な自粛で安易に祭典文化を破壊した為政者・専門諸色の責任の重さを感じざるを得ない。特にも人々の意識に分断と不寛容・監査の眼差しを深く根付かせた罪は重大である。私自身、そうしたノイズから解放されるのは何年先になるのか、あるいは一生このままなのか。
 来年のその次の年も、たくさんの“すてきなおまつり”に出会いたい。すてきさにちゃんと共鳴できる自分でありたいと願う。

(参考)

令和2年記録 令和3年記録

文責・写真:・山屋賢一

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