盛岡山車の演題【風流 仁田四郎忠常】
 

仁田四郎忠常(巻狩四郎)

 



盛岡市油町二番組昭和62年

 源頼朝が鎌倉に幕府を開いた頃、富士山を舞台に大規模な「巻狩り(まきがり)」が行われた。巻狩りとは山をまるごと一つ使って行う武士の訓練で、御家人の鍛錬さらには幕府の安寧を山の神に祈る一大式典であった。
 この「富士の巻狩り」のさなか、2つ大事件が起きる。ひとつは昼間、暴れ猪(いのしし)一頭の頼朝陣屋乱入である。そのあまりの暴れぶりに近習はたじろぐばかりで、誰一人手を出せない。頼朝が「砂埃が目に入る」とその不甲斐なさから眼を背けかけたそのとき、豪傑仁田四郎忠常(にたんのしろう ただつね)が疾風のように現れて、猪の背にひらりと飛び乗った。そのまま尻尾をつかんで手綱にし、腰の短刀を猪に突き立て見事にしとめてみせたのである。忠常が献上した猪を、頼朝は「富士の巻狩り一番の獲物」と称した。そのような豪傑が御家人の中に居てくれたことが、頼朝にとって何よりの冥利であった。
 その夜、曽我兄弟が親の仇討ちのため頼朝陣屋に忍び込んだ。北条時政の護衛であった忠常は兄の十郎と一騎打ちに及び、激戦の末討ち取ることとなる。

乗らない忠常(岩手川口井組平成18年)

 大猪に跨った山車上の忠常は鹿の皮の袴を穿いて直垂の片袖を抜き、腰に箙(えびら:矢を携えるための道具)をつけ笠を被る。盛岡山車ではこの題だけで見られる中世の狩場装束である。もっとも、このような狩場姿は戦後に定型化したようで、『盛岡四百年』下巻掲載の写真に見えるものが最初の試みと思われる(昭和35年盛岡二番組、猪の迫力が凄まじい)。昭和晩期までは単に侍烏帽子だったり鉢巻を巻いたのみの忠常もちらほら見られた。これらは単に再現度が低いのではなく、「当時の巻き狩りは狩りのいでたちでなく武装にて行われた」との解釈によるものかもしれない。一戸の本組の忠常(昭和60年)は烏帽子をかぶり公家のような優雅な面持ちにも見えるが、これはこれで立派である。猪にやや後ろ向きに乗っているのも躍動を醸していて良い。
 見ものはなんといっても、張子作りの大猪である。ただでさえ大物の猪だが、全身を毛皮で覆わねばならない。荒ぶる獣の逆立つ毛並みを表現しようと、稲藁の根本やスギの葉など各組・各地で様々な素材が工夫された。明治中期には「盛岡中の竹箒を集めて作った」という名作の逸話が残り、四郎が通りの軒を越えて高く競りあがる仕掛けが人気を呼んだという。

上がり猪・烏帽子の忠常(一戸橋中組昭和31年:提供写真)

 近年の作は猪が駆け下るような角度にしてあるが、写真を見るに、戦前は立ち岩に向かって躍り上がるような猪が多かった(写真3参照)。忠常が猪に跨って短刀を逆手に握って振り上げる構図が一般的だが、岩手町川口の井組では矢襖になった猪を槍で突く忠常を模して、跨る定型を破った。忠常を乗せない猪は矢襖にされ、これはこれで勢いや獰猛さが際立った。令和に入って一戸の本組が作ったのは短刀を刺す形の忠常で、被り物も船型の烏帽子(曽我兄弟と同じ被り物)とし、見返しには『御狩の万寿(まんじゅ)』と題して少年源頼家(みなもとの よりいえ:頼朝の後継者)の弓引く姿を飾った。


(他の地域の「仁田四郎」の山車)

 八戸三社大祭・大湊ねぶた(青森県)、土崎曳山(秋田県)、新庄山車(山形県)で見たことがある。うち土崎の忠常は、バンザイの姿勢で暴れる猪をにらみ、隣にいる頼朝を守っていた。新庄の忠常は、兜をかぶった完全な鎧姿で猪に乗ることが多い。
 岩手県内の他系統では、二戸の在八町内会で『風流 工藤祐経(くどうすけつね)』としてこの場面を描いたことがあった。猪に乗っているのが祐経なのか忠常なのかは、今となってはわからない。
 猪の登場する演題にはこのほか、八戸山車の『日本武尊』がある。尊は山の神の大猪を射て、その怒りに触れて身を亡ぼすという筋書きである。
 また東北では猪・鹿・カモシカなどを総称して「シシ」と呼び、これらをひっくるめて或る種の異形の神獣を作り出し演じる芸能を「しし踊り」と呼んでいる。


秋田県角館町の置山「富士の巻狩り」

(写真抄)
 (1枚目)昭和62年、私が幼いころの盛岡の山車。大変上品でまとまった面持ちの忠常で、頑張って上手に作ったというよりは自然に技巧の発揮された作と感じる(盛岡山車は昔、このような品で溢れていた)。猪は恐ろしさや躍動こそ欠けるが、大物でバランスがよい。紅葉はこの年からしばらく二番組の山車に伴われたが、この作については秋の景を醸す装置的な使われ方のようにも思われ、配し方も上手い。(2枚目)岩手町川口の忠常で、平成12年に試みた跨らない構図を再度採り上げた。武器を短刀でなく槍にしているのは1・2作共通だが、本作では髭を足し、槍を持たないほうの手を猪の毛をつかんだようにしている。猪の目が、夜間は赤く光った。当組は今までに3度忠常を上げ、3作目は定例通り猪に乗せている(リンク参照)。(3枚目)亡き父がよく話題に上げた一戸回りの忠常で、「竹串をゾクゾク差した毛並みが面白い」と度々聞いた。後年製作にあたった方とお話しし「竹串でなく藁の根元を使った」と教わり、その際に頂いたのがこの写真である。当時一戸には山車絵紙が無かったが、日詰では写真をもとに絵を描き、それが一戸に保管されている(寺小路組)。(4枚目)秋田の角館祭りで披露された「置き山」で、動かさない分背高に仕立てられている。題材は「富士の巻狩り2つの事件」で、縦長の部分に仁田四郎・横に渡した部分には蓑笠姿で仇討ちに向かう曽我兄弟が飾られている。


文責:山屋 賢一/写真:山屋幸久・山屋賢一


(ページ内で公開中)

川口井組  一戸本組  忠常富士の神霊を見る(青森野辺地)  日本武尊と猪(岩手北上)

本項掲載:盛岡市二番組S62・岩手町川口井組H18・一戸町橋中組S30(提供品)・(他系統)秋田県角館町の置山


山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
定型 盛岡二番組(本項)
一戸上町組
沼宮内新町組
盛岡川原町
盛岡二番組
一戸橋中組(本項)
一戸本組
沼宮内新町組
一戸上町組(富沢)
盛岡二番組
沼宮内新町組(手拭)

《二次資料》
盛岡川原町
紫波町日詰寺小路組(現一番組)
盛岡橘産業(富沢)・同押絵
一戸本組(富沢)
短刀刺し 一戸本組 一戸本組
乗らない 川口井組@A(本項) 川口井組(香代子)
ご希望の方は sutekinaomaturi@outlook.comへ

(音頭)

富士の裾野(すその)に 咲く七草は すすき尾花(おばな)や おみなえし
富士の裾野の 秋七草に 残す誉れの 仁田四郎
四郎忠常 武勇の誉れ 猪
(しし)を仕留めた 富士の裾
富士の裾野の 大巻き狩りで 四郎忠常 猪を討つ
富士の御狩
(みかり)に 武勇の鑑(かがみ) 仁田(にたん)忠常 猪退治
猪に跨る 忠常が 幾世
(いくよ)武勇の 亀鑑(かがみ)なれ
音に聞こえし 仁田の四郎 大巻き狩りに 名の誉れ
頼朝
(よりとも)襲いし 荒れ狂う(あれくれ)猪を 仁田誉れの 猪退治
伊豆
(いず)の国から 頼朝支え 忠義を尽くし 名を残す
仁田四郎が 御狩り
(おんかり)功名(てがら) 富士の裾野に 梅かおる




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