令和3年(コロナ禍)の岩手の山車まつり


(はじめに)

 令和3年の岩手の晩夏・初秋は新型コロナウィルスデルタ株の感染拡大に伴う「県独自の緊急事態宣言」にさらされ、山車まつりはいわば焼け野原の状況となりました。前年は中止こそがイレギュラーであったのに、当年は開催の方がイレギュラーとの暗黙の了解が各所にあったような気がします。そんな中で準備してきたさまざまが、いよいよ秋にかかって延期されたり中止されたりしていく。延期が本当に延期であるのかもわからない。それでも咲き残ったマツリの花がようやく開いたのは、木々の葉が色づく頃のことでした。
 一枚目の写真は、そんな令和3年の岩手が最も華やぎ色づいた時間を撮ったものです。顧みると、そんなささやかながら確かな花が令和3年の岩手にいくつも咲いていたことに気付きました。ここではそれらを集め、岩手山車祭り再開の願いに代えたいと思います。

 

令和3年10月31日、岩手県盛岡市肴町

義勇奉公 心に秘めて 守る郷土の いやさかを
江戸で名を立て 受け継ぐ歴史 南部火消しの 心意気



令和3年4月25日、岩手県北上市黒沢尻秋葉神社hspace=30

 水沢の日高火防祭は2年連続で中止となりましたが(秋に厄年連イベントを開催)、北上黒沢尻の火防祭は中止を免れ縮小開催となり、ポスターには「山車展示」の字が躍りました。祭事は諏訪神社の境内で10時頃の開始。神輿・山車を展示する組と、音頭や踊りを奉納する組のいずれかに分かれました。6区と12区が3本ずつ音頭上げをし、7区は通常子供がやる神楽を大人が、頭1つで踊りました。
 山車を製作・展示したのは3区で、神社の門の内側に小屋掛けし、人形1つの『花咲爺』の山車を作りました。牡丹などに灯が入り、演題札は外に立ち、見返しは無く、そもそも見返し側に入れないようになっています。小さな限られた飾り物の中に3区山車組の積み上げや試みがたくさん詰まっていて、北上地方全体の山車をやりたい気持ちが凝集しているようにも感じました。
 写真は左に展示山車・境内では神楽の下舞が舞われ、右手前に神輿が飾られた祭事の一景です。境内に子供の姿は無く、大体30分ほどで奉納が終わりました。



 7月15日の大更(八幡平市西根)の夏祭りは、奇跡のような一日でした。神社の境内に例年並みの出店が出て、町中には注連縄と提灯が巡らされ、山車も例年通り縦横無尽に動いたのです。運行時間も予測していたよりずっと長く、祭りの核が何なのか、自分は何に惹かれ、恋い焦がれてここまで生きてきたのか、それはそれは深く考える日になりました。バスに乗って見知らぬ町の暮らしに少しだけ入って、時間を共有しながら祭りの場に向かうこと。音を頼りに祭りを探す楽しさ、予期せぬ出会いから生まれるたくさんの学び、不連続に・不規則に・無制限に人が集まり去っていくことの楽しさ、…この祭典を今までで一番長く見て、感じたことは実に多いです。(記事



 大迫(花巻市)では、4組中3組が一晩分(つまり表裏ひとセット)のあんどん趣向を作り、披露・点灯しました。しかもうち2組は台車を組み、その上での披露でした。明かりを灯す夕方には、半纏姿の何人かが受付・管理・警備としてその場に付いたようです。
 祭日は8月14日、県独自の緊急事態宣言がその2日前・12日に出たため、太鼓共演であったり山車の移動披露であったり、地元の子供のみを客とする縁日などは軒並み自粛され、新聞等での報道も一切無く終わりました。
 私自身は16日の午前中、人出が無いところを見計らってこっそり眺めに出かけ、その際いただいた下町の絵紙兼告知文面にてマボロシの催事について知ることができました。『まつり』というお神輿を担いだ若衆のあんどんが、この時世下で特に心に響きました。(記事



令和3年8月29日、岩手県二戸郡一戸町橋中組山車小屋

 一戸では前年同様の祭典代替企画を催し、土曜は八坂神社で全山車組が1本ずつ音頭を上げ、日曜は駅西側の鳥海稲荷神社に幟が上がりました。本組は小屋掛けし、中に山車の模型を2つ飾って供え物をしました。橋中組では1メートル弱のミニ山車を仕立て、 土曜は八坂神社まで引き、日曜は山車小屋の区画内を5度ほど巡りました。
 本組の山車模型を今回ほど時間をかけて見たことはかつてありません。改めて精緻に作られた造花類が見事で変化もあり、人形の構図もよく吟味されています。横並びにされた模型は、角度によっては一戸駅前に並んだ山車の群像のようにも、またパレードですれ違う佳境の一景のようにも見えました。
 橋中組のミニ山車は、前作は札が小さいだけでおおむね通常の山車人形の再現でしたが、今回はこのサイズならではに工夫されました。スサノオは大きいですがオロチは細く小さく、首が大岩の様々なところから出ている表現です。酒槽も小さく仕立て、きちんと8つありました(お賽銭の硬貨が綺麗に収まるサイズ)。これをリアルなサイズでやったら貧弱に見えたり樽は全部見えなかったりして全然良くないのでしょうが、上から見下ろせるミニ山車ならば、これはだいぶ効果的で面白い趣向でした。
 日曜は引き回しに合わせて新調の大八車が披露され、大八車の上で大太鼓・小太鼓が奏される中をミニ山車が20分ほど運行しました。写真は運行を前にしたミニ山車『八岐大蛇』と、後ろに控える新調の大八車です。

 隣の二戸市では二戸まつりの日に、愛宕山車が10名程度で門付けをしました。昨年に続いて挙行されたもので、昼過ぎに中心街の商家を回り、一軒ごとに歩み太鼓を叩いて音頭を上げました。小太鼓は肩がけでひとつ、大太鼓は台車に上げて運び、それぞれ大人が叩いてタメを利かせます。二戸の山車太鼓がこれほど粋に聞こえたことは今まで無くて、拡声されないことがいかに重要かを知りました。幟を伴った門付け風景には、八戸えんぶりのような風情も感じました。
 あとで新聞で、在八が公民館の中に『紅葉狩り』の山車趣向を作ったと知りました。二戸の山車づくりが途絶えず続いてくれて嬉しいです。



令和3年9月8日、秋田県仙北市角館hspace=30

 岩手から出た秋田の角館(仙北市)では例年のように新作の山車趣向がいくつも手掛けられ、町々に張り番(祈祷所・祭典事務所)も立ちました。両神社前には置き山も上がり、告知と運行が無いだけでマツリ自体はだいぶ守られた感があります。出た趣向の数は令和2年が8、本年は15で、これは例年の出場数18に迫るレベルです。催行例や公開場所も一覧にして伝達され、現地を訪れ各所に足を運びさえすれば令和3年なりの角館の山車に触れることが出来ました。
 人形趣向(草木の飾りも含め)を民家の座敷や店先に人形だけ組むパターンがありました。写真はそういう例で、街中の休憩所の座敷のスペースに設置された本町通りの飾山人形『保元の乱』です。為朝は疫病退散の由来にちなんで選んだといい、他『御摂勧進帳』もイモガサ=疱瘡(伝染病)を洗う意図で作ったそうです。広場(格納庫でなく町内の空き地やコンビニの駐車場など)に引き出した山の上に本番並みに趣向を作る町もあり、この形だと山車自体については例年並みですが、背面に人形を付けず、酒樽を積んだだけのところが多数でした。
 神主を先に立てた神輿行列が町内をお祓いに歩き、そのお囃子のみが祭日の角館を賑わす音となりました。



令和3年9月12日、岩手県花巻市石鳥谷上和町組倉庫

 石鳥谷(花巻市)では、本来の祭典期間(9/8〜10)に商店街「ぷらっと」内での人形展示が企画されたものの緊急事態宣言によって頓挫、延期となり、同期間、上和町組では有志「秋友会」の名義で、本来の山車小屋から少し離れた場所で山車展示を行いました(9/10・11)。表面のみ見せ見返し側には入れないような形とし、夕闇が迫ると電気も点けました。
 写真は展示場の様子です。披露されたのは『加藤清正虎退治』(令和元年上和町組)の山車で、派手で明るい色彩の趣向が田んぼに囲まれたのどかな展示場に映えました。「ぷらっと」に飾るはずであった見返し人形『英執着獅子』が傍らに添えられ、他にもいくつか過去の趣向の添え物が展示されました。盛岡並みの色刷り絵紙も作られて、見に来た人たちに配られました。

 ぷらっとでの企画も緊急事態宣言解除後の10月に無事開催され、上若連・中組・上和町組が山車人形を出品しました。うち先の2組は表用の人形を館の天井ギリギリまで使って飾り、体勢を組み直した準新作の趣向でした。上若連は『雨の五郎』の頭が天井に付くぐらいの高さ、中組の『真田幸村』は地に足が付いた形で兜の角が天井に迫ります。松や桜・牡丹などを添えたのでぐっと山車らしくなり、また組によって添え物選びが違ったのも面白く、満足のいく企画になりました。(写真



令和3年9月19日、岩手県花巻市東和町土沢

 旧東和町(現花巻市)土沢では、商店街の一角で中下組の山車人形が公開展示されました。こちらは飾り物を添えない人形だけの展示です。うち見返しは保管されていた過去のものがたくさん並び、表については『暫』が新作されました(写真)。展示期間は本来の祭典期間より長く、人形趣向に間近に迫れる機会にもなりました。併せて歴代の記念写真・スナップ写真も展示され、花巻型や八戸型・盛岡型と回転部(ウィング)の併用など同組の作風の変遷を知ることも出来ました。

 帰りには花巻市街で上町のミニ山車を見ました。前作に比べ今回はこの規模なりのまとまりが見られ、盛岡山車に近い構成も感じました。人形は前述した角館と同じ意図の為朝ですが、こちらは明確に疫病退散の趣向にまとめてあり、マスクをかけたことで目力が引き立っています。見返しは前年の滝登りを、色を塗り替えて使っています。(写真



令和3年10月2日、岩手県岩手町沼宮内大町

 沼宮内では稲荷神社の本来の祭典日である10月2日、正午から境内で七ツ踊り・駒踊り・獅子踊り・清流太鼓と山車組5つの音頭上げが奉納されました。その後、山車組5つの提灯を足元に並べる形で新町組の山車が街に繰り出しました。趣向は江戸の歌舞伎の『助六』であり、足元に平仮名の提灯が複数並んだことで独特の味わいが生まれました。見返しは、当地名物の縁起物の見返し『鶴と亀』。運行はノンストップ・音頭無しで1時間、稲荷神社から大町商店街までを往復しました。写真のように引き綱には5組の半纏が入り混じり、皆で一つのお囃子を奏で、山車を引っ張りました。
 途中の「街の駅よりーじゅ」内には大町組の『八艘飛び』が義経のみで、配置を変え高さを縮めて再現されました。松も桜も牡丹も少しでしたが、電飾入りだったのが嬉しいです。ろ組ではこの日に大八車の虫干しをし、盆の上に『雨の五郎』の骨を組みました。
 町内川口では山車は作られなかったものの、祭日に神楽や狐踊りが神社に奉納されたようです。



令和3年10月31日夜、岩手県盛岡市松尾町

 盛岡山車特別巡行はもとは9月中旬に実施の予定でしたが、緊急事態宣言のため延期され、そのまま雪が降ったら中止になる、そういう制約があったといいます。決行が内定した10月31日には急遽衆議院議員総選挙が入りましたが、それでも何とかこの日に山車を出すことに決まりました。盛岡の町は木々の葉色づき、濃い紅葉の色の中を秋祭りの山車が通る当年ならではの光景となりました。
 運行したのは2台で、ひとつは盛岡観光協会山車推進会にさ組との組を加えた連合山車(城西組は不参加)、人形は『鍾馗』で、着物が変わり鬼も大きく作り直されています。こちらの方が早く出発し、電飾して夜まで運行しました(写真:令和3年唯一の夜間運行)。もう1台は火消し保存会、火消山車組全ての提灯を一張ずつ並べた『南部火消し』、実見だけでなく古写真も含めてこれまで見た纏ものでは一番の出来栄えでした。(記事
 2台は昼過ぎに八幡宮前を発し、基本的にはバラバラに歩きました。山車が細い路地を隈無く巡り、頻繁に止まって音頭をたくさん上げたのは嬉しい限りでした。バラバラに動いている山車にこんなに沢山観客が付いて回る光景を私は今まで見た事が無く、もしかしたら遥か昔の祭りの姿を垣間見ているのかもしれないとありがたく感じました。
 引き手が少ない感じはせず、揃いのロゴを入れたマスクや見慣れない新調の半纏も出てきたりして、この環境なりの楽しみ方・進展を各所に見つけられました。町中に絵紙ふた色が貼り出されましたが、これは事前に経路に配ったといい、従来のような祝儀にその都度返す形はいったん封印されたようです。
 2台は肴町アーケードでひと並びになり、そのまま八幡町をパレードしました。前年と同じく鳥居をくぐって八幡宮境内に山車が入り、南部火消しの山車はここで解散、鍾馗はここで灯を点けて夜の運行に発ちました。
 半日、久々に山車を追って盛岡の町を歩き、その日は心地よい疲れの中で眠りに就けました。それからしばらくは、鬱々としたコロナ禍の心持から解放された気がします。



…以上、何とか明るく当年の山車祭りを書けないものかと私なりに苦心した「令和3年 岩手の山車祭り」でした。山車が、お祭りが無くなる懸念が年を追うごとに高まりつつある中、お読みいただいた皆さん、どうか私と一緒に、また「すてきなおまつり」に会えるよう祈ってください。

写真・文責:山屋賢一(やまや けんいち)/連絡先:sutekinaomaturi@outlook.com

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