盛岡山車の演題【曽我兄弟】
 

曽我兄弟(壽曽我・草摺引・夜討曽我)

 



盛岡山車『寿曽我』

 盛岡の山車に出る2体の歌舞伎演題には、曽(曾)我兄弟(そが きょうだい)の仇討ち物語に題をとった作品が多い。
 兄弟は兄を十郎祐成(じゅうろう すけなり)、弟を五郎時致(ごろう ときむね)という。1体ものの歌舞伎山車『矢の根五郎』や『雨の五郎』は曽我五郎を象った人気の演題であり、通は「五郎」というだけで誰を指しているかすぐに分かる。「五郎」は「ごりょう」に通じ、御霊信仰(ごりょうしんこう:現世を怨んで死んだ人のたたりを恐れ、神として祀ること)と関連して曽我が愛好されたともいうが、やはり山車の起源も御霊信仰につながるものであるから、古くはこういう意識から曽我の山車が作られたのかもしれない。五郎は箱根神社の荒人神(あらひとがみ)として祀られてもいる。

盛岡山車『草摺引』

 曽我兄弟の仇討ちは、鎌倉時代に実際に起こった「源頼朝夜襲事件」である。幕府発足直後、もっとも厳重であるべきトップの枕元がたった2人の暴漢によって掻き乱されたのは、当時としては大変な衝撃であった。この事件で弱さが露呈した鎌倉幕府は、後に三代で頼朝の血筋が途絶え、北条一族に乗っ取られてしまう(執権政治)。北条時政が五郎の烏帽子親になるなど曽我兄弟を篤く庇護していたことから、政敵抹殺を謀る一策であったとの「北条黒幕説」も古くから語られている。
 兄弟の父は河津三郎祐泰(かわづのさぶろう すけやす:伊東祐泰)といい、御前相撲で大口を叩いていた優勝候補を「河津がけ」という技を使って打ち負かしたため、逆恨みされて帰りの夜道で暗殺された。河津の妻は涙ながらに幼い兄弟へ父の仇を討つよう諭し、兄弟は母が別の夫に嫁いだ後も志を枉げず(ゆえに「河津兄弟」ではなく「曽我兄弟」となる)、富士の巻き狩りの夜、幕府の高官工藤祐経(くどう すけつね)を討った。本懐を遂げた兄弟は、咎により処刑されたり逃亡を続けて生き長らえたりするのを恥と考えた。そこで、日本一のつわものと太刀を交えて死ぬために、将軍頼朝の陣屋に入って護衛と戦った。十郎は仁田四郎に討たれ、五郎は御所五郎丸に生け捕られて刑死する。兄弟は、いずれも短い生涯を仇討ちのためだけに生きたのである。

 歌舞伎そのものが著しく曽我に傾倒し「江戸の歌舞伎は曽我で持つ」などといわれていることも、曽我ものの山車の多さの一因ではある。初夢で富士を見る代わりに富士山を舞台に展開する曽我兄弟の歌舞伎を見るのが、元禄以来の江戸っ子の新年の慣わし(吉例)でもあった。一方で、3歳・5歳という幼年期に父を殺され、その後の人生すべてを不毛な仇討ちに賭し宿願を果たしてすぐ落命した兄弟に、風流山車に呼応するべき精神構造が感じられることも見逃してはならない。
【写真 盛岡八幡宮祭典山車 本組『吉例寿曽我』S59・三番組『根元草摺引』H元】





壽曽我の出端(沼宮内愛宕組令和元年)
1、壽曽我(ことぶき そが)

【写真 出端(沼宮内愛宕組令和元年)・幕切(石鳥谷上若連平成28年)】

 『吉例(きちれい)寿曽我』、『寿曽我 対面(の場)』『曽我対面』などと題がついたこともある。新春歌舞伎の顔見世(かおみせ)として演じられ、五郎は蝶・十郎は千鳥をそれぞれ染めた水色の裃(かみしも:武士の正装)姿で、島台を片手に登場する。給仕に化けた曽我兄弟が初めて父の仇の工藤祐経と「対面」する場面であり、対面の間、五郎は感極まって何度も祐経につかみかかろうとするが、その都度片膝をついた十郎が制す。
 二人が手にする島台(しまだい)は祝い事の引き出物で、五郎の台には小槌・十郎の台には金の立ち烏帽子が乗り、松葉と紅白の梅で飾られる。五郎は前を残した童子の髪・十郎は月代のない成人の髪、五郎を激情の荒事・十郎を思慮深い和事の役に演出し、2人の見せる見得の型は「鶴亀」という。背景には格子模様の障子を飾り、金の襖に庵木瓜(いおりもっこう)という工藤の紋が入る。盛岡山車歌舞伎演題の中でも一二を争う色彩の鮮やかさで、人気の高い演し物である。

壽曽我の幕切(石鳥谷上若連平成28年)

 寿曽我の山車は昭和59年に盛岡の本組が初めて出し、後に平成5年石鳥谷町上若連・平成8年盛岡厨川や組…と続いた。これらは皆、兄弟のいでたちが最も色鮮やかな出端の場面を採り上げている。実際の歌舞伎の色味に一番近いのは石鳥谷で出た寿曽我だが、やや灰色がかった地味な色なので、他ではもう少し鮮やかな色にしている。盛岡のさ組は、五郎が工藤から与えられた杯を打ち捨てて木の台を打ち壊し、壊れた台の木っ端を握って暴れている場面を製作、定型に一案を加えた。舞台の終わり近くなので、五郎のいでたちは赤一色である。また島台をかざす五郎だけを抽出し、草摺引と同じ化粧の朝比奈を添えて出したりもした。

 対応する見返しとして、朝比奈の妹『舞鶴(まいづる)』や、寿曽我上演時の前座『娘七種(むすめ ななくさ)』が考案されている。

(写真公開)

さ組@(盛岡祭)  三番組(盛岡祭)  さ組A(盛岡祭)  




(音頭)

名題成田屋 歌舞伎の十八番(おはこ) 寿曽我で 初春(はる)を呼ぶ
江戸の初春
(はつはる) 寿く(ことぶく)曽我の 梅も盛り(さかり)の 紅(べに)と白
たけき心を 剥き身
(むきみ)の隈(くま)に 秘めて仇討つ 時を待つ
蝶と千鳥
(ちどり)の 長裃(ながかみしも)に かざす島台(しまだい) 曽我の遺児
かざす島台 蓬莱
(ほうらい)飾り 夢よ叶えと 曽我の見得
梅も牡丹も 源平
(げんぺい:紅白)競い 鶴亀見立ての 花が咲く
花は五郎の 剥き身の隈よ とめて朝比奈
(あさひな) 道化役
朝比奈引きで 祐経
(すけつね)対面 決意固めし 曽我兄弟
富士の御狩
(みかり)は 皐月(さつき)の頃と 心秘めつつ 時を待つ
尋ね当てたる 不倶戴天
(ふぐたいてん)に いま吹き戻すか 天ツ風(あまつかぜ)
権勢を誇る 祐経見据え 河津(かわづ)の遺児が 見得を切る
祐経情けは 狩場の手形 逸
(はや)る心を とどめおき
勇み逸りし 五郎をとめて 富士の狩場に 夢馳せる




石鳥谷上若連平成25年
2、草摺引(くさずりびき)

【写真 五郎にどてら(石鳥谷上若連平成25年)・脇に舞鶴(葛巻町下町組平成30年‐盛岡観光協会借上‐)】

 『根元(こんげん)草摺引』、『正札附(しょうふだつき)根元草摺』などと題が付けられている。
 五郎は、兄の十郎が高官たちに嬲(なぶ)られていると聞いて助けに行こうとするが、後見人の小林朝比奈(こばやし あさひな:朝比奈三郎)が短気を起こさぬようにとこれを引き止める。五郎は聞かずに飛び出そうとし、朝比奈は、五郎が衣の下に着ていた逆沢潟(さかおもだか)の鎧の裾(草摺)を掴んで離さない。人毛の綱で頑丈に作られているはずの鎧の草摺が、引き合う二人の怪力で引きちぎれてしまう。朝比奈は重要な役割だが道化の隈取で、若々しい剥き隈の五郎と滑稽な蟹隈の朝比奈、2人の対比がユニークな趣向である。

葛巻町下町組平成30年

 ともに赤い着物であるのが定型で、五郎は鞘に収めた刀を片手にし、2人の間に立派な赤い鎧を据えて引き合いの場面を描く。主題をわかりやすくするため、歌舞伎の草摺引では鎧を着けないで手に持って引き合うのだ。赤い衣装に入っている文様は、鎌の絵と丸印・平仮名の「ぬ」・四角に斜め線を入れた「ます」等で、続けて読むと「かまわぬ」とか「かまいます」と読める洒落の図柄である。盛岡の三番組、石鳥谷の上若連などがこの形で山車に作り、盛岡のさ組は着物を無地にした。
 さ組では2体で出す以前に、鎧を頭上に高く振り上げた一体ものの五郎の山車を作っている。後年、同様の構図が東和町の土沢で採られたほか、盛岡市内では城西組が見返しに使っている。
 実際の舞台では朝比奈を女形の舞鶴(まいづる:朝比奈の妹)に差し替えることも多いといい、盛岡観光協会ではこれに沿った男女の草摺引を山車にした。古い絵紙(昭和30年盛岡三番組、初の多色刷りの番付)を見ると、双方赤衣装でなく、五郎は黒地に蝶の刺繍のどてら姿・朝比奈も現在よりはるかに豪華な装束で作られていたようだ。逆に言えば、「かまわぬ」「かまいます」を山車の衣装に初めて取り上げられたのは平成元年ということである。
 戦前には朝比奈だけを1体で大きく作った山車が出て、岩に腰掛け煙管をふかすこの時の朝比奈の人形は、現在は『釣鐘弁慶』盛岡一の大人形としてたびたび登場している。

(写真公開)

さ組(盛岡祭)  橋本組(日詰祭)  城西組(盛岡祭)




(音頭)

曽我の絵巻を その草摺り(くさずり)に 五郎朝比奈 引き競う
赤き隈取
(くまどり) 情けの花に 剛勇無双の 曽我絵巻
和田の館で 困りし十郎
(あに)を 鎧片手に 時致が
蝶も華やか 鎧を高く 三枡
(みます)歌舞伎の 見得の佳(よ)
意地と情けの 市松模様 見得を競うか 男花
五郎舞鶴 争う意気は 逆澤潟
(さか おもだか)の 大鎧(おおよろい)
構う構わぬ 草摺引きの 末に本懐
(ほんかい) 遂げし曽我





盛岡市八幡町い組昭和62年
3、夜討曽我(ようち そが)

【写真 盛岡市八幡町い組昭和62年(通算2作目)/大正6年県社八幡宮祭典鉈屋町有志の山車絵紙より(もりおか歴史文化館所蔵品)】

 苦節十八年の末、巻狩りの好機を得て曽我兄弟はいよいよ父の仇、工藤祐経を討ちに行く。狩場にはさなぶりの雨が降りしきっている。肩蓑を纏った兄弟は闇夜に松明をかざし、苦節の末に迎えた仇討ちの感慨を語る。

(昭和晩期から平成にいたる『夜討曽我』)
 五郎は浅黒い肌で黒に蝶の模様の着物の立ち姿、一方の十郎は色白に千鳥の舞う青い着物をまとい、膝をついている(前述「寿曽我」と、実は同じ体勢)。昭和の末には日詰や石鳥谷でも作例があったが、平成2ケタ代以降は盛岡の八幡町い組が5年に1回製作するのみである。石鳥谷では主に盛岡流でなかった山車組が盛岡流の形をきちんと整えた年、登竜門のように使う題材のようである。

大正6年県社八幡宮祭典鉈屋町有志山車の絵紙

(昭和50年ころまでの『夜討曽我』)
 討入り前の蓑笠姿の他、実際の討ち入りの場面を描いた山車があったようである。盛岡では大正期に鉈屋町・戦後はか組が、女装した御所五郎丸(ごしょの ごろうまる)が曽我五郎を後ろから捕らえる場面を出している。五郎丸は討ち入りの日の昼間、狩場に潜む曽我兄弟の姿に気付いたが敢えて見逃し、本懐を遂げさせた後でこれを捕らえた。五郎は本気を出せば五郎丸から逃れることもできたが、このときの恩返しでわざと捕らえられたとの美談がある。五郎は被り物なしの洗い髪・五郎丸は前髪を残した結い髪で、か組では『曽我の狩場』と付題、五郎丸の人形を五郎の真後ろに配した。他、一戸の西法寺組では曽我十郎と仁田四郎忠常(にたんのしろう ただつね)との一騎打ちが山車になった(題は不明)。
 蓑を纏った五郎・十郎2体の趣向も、現在い組が出している構想とは違う。ともに立ち姿で十郎が松明・五郎は抜き身の刀を手にする構想が絵紙に残り、実物では本町は双方刀にし、三番組は絵の通り十郎に笠を掲げさせた。着物は五郎も十郎と同じく青で、柄だけが違う。他、一万(いちまん)、箱王(はこおう)といっていた頃の子供の曽我兄弟の山車も戦前に出た。

 対応する見返しとして、十郎の恋人の女郎『大磯の虎(おおいその とら)』(虎御前)が工藤の陣屋の板戸を開けて曽我兄弟を引き入れる場面を飾る定例がある。虎は灯明を片手にし、帯を遊女の作法で体の前で結んでいる。以前は戸を開く型のほか、陣幕をめくり上げる演出もあったようだ。こちらも現在は盛岡の八幡町しか作っていないが、もともとは広域で曽我ものの見返しに使われていた。
 虎御前は恋人の十郎が仇討ちを天下に誇る間もなく討ち死にしたことを深く悲しみ、以来当地では仇討ちの5月28日に降る雨をその涙にたとえて「虎の(が)雨」と呼ぶようになった。

(写真公開)

上若連(石鳥谷祭)   い組(盛岡祭)   い組(盛岡祭)  【他】秋田県秋田市  




(音頭)

富士の裾野に 鳴く秋虫も 勲(いさお)偲ぶや 夜討ち曽我
二人比丘尼
(びくに)や 墨染めの 思いはかなし 曽我の里
富士の嵐か 十郎五郎 狙うは工藤 父の仇
富士の狩場の 五月雨
(さみだれ)ついて 父の無念と 舘(やかた)ふむ
十八年の 春秋を 心にかけし 父の仇
蝶に千鳥ぞ 其の名も曽我と 富士の狩屋に 夜の雨
富士の裾野の 工藤の舘
(たて)に 報いてともに 散りにけり
松風寒し 鳴く虫も 後の世までの 語り草
門出の三衣
(さんえ) 胡蝶に千鳥 親が情けの 狩り衣(かりごろも)
工藤のやかた 富士野は深し 河津の遺児が 忍ぶ夜半(よわ)

(※大磯の虎)
廓の太夫(たゆう) 大磯育ち 虎が手引きの 夜討ち曽我
仇を報いし 狩場の雨に 情けも深き 虎御前



【他地域の曽我兄弟の山車・祭りの中の曽我兄弟】

ねぶた『船の草摺引』青森県青森市

 歌舞伎山車が得意な山形県の新庄祭りでは、壽曽我が兄弟のほか工藤・舞鶴を備えて作られており、工藤が兄弟に富士の巻き狩りの通行手形を渡して正々堂々勝負を挑む場面としている。人形ねぶたには見られない演題であり、角館の飾山でも盛岡と同じ型の寿曽我は珍しい。
 草摺引きは歌舞伎仕立てでなく作る例が青森方面(ねぶた、久慈の山車など)で見られた。五郎が着ている鎧の裾を髭を生やした朝比奈三郎が抱きつくように掴んでいる姿である。赤い衣の歌舞伎風の五郎1体飾りに草摺引きと題をつけた山車が、宮城の登米で工夫されている。盛岡山車に近い構想はやはり他地域では試みられていないし、盛岡山車において他地域のような武者仕立ての草摺引きも工夫されていない。なお、北上市などで踊られている郷土芸能「鬼剣舞」の演者は腰に大きな茣蓙を下げているが、この茣蓙に描かれている絵柄が草摺引きの錦絵であり、当地では「安倍貞任図」であるといわれている。
 夜討ち曽我については、上に紹介したほかに兄弟が工藤の寝所にいたって本懐を遂げる姿も採り上げられているようで、青森ねぶたや秋田の土崎曳山などで工夫されている。五郎丸が振袖をかぶって五郎に近づく姿は角館、新庄など日本海側の人形山車で数例見られる。五郎丸は隈取の入った歌舞伎風の仕立てである。珍品では、捕らえられた五郎が十郎の首とともに頼朝と対面する構図が角館祭りに出ている(七日町)。

盛岡市見前宮崎神楽『十番切』

 山車だけでなく、神楽の世界にも曽我物といわれる演目群があり、五郎が頼朝陣屋に入って護衛10人を一気に切り殺したエピソードを『十番切り』と題をつけて上演しているほか、特に岩手県北から青森県南部地方にかけて『曽我兄弟』を役舞に加えている神楽座が多い。2人で演じる武士舞である。また同地域には「とらじょうさま」という盆歌があって、これは遊女をはやし立てる歌詞であるが、とらじょうとは「虎女」で、虎御前を指している。曽我兄弟を助けた虎御前は遊女の代名詞となり、虎女がそのまま遊女の意味で使われるようになった。
【写真 @青森県青森市のねぶた『船の草摺引』 A見前宮崎神楽『十番切り』(岩手県盛岡市) B水沢のくくり雛『夜討曽我(五郎・虎御前・十郎)』(岩手県奥州市)】

水沢のくくり雛『曽我兄弟』(岩手県奥州市)




文責・写真:山屋 賢一


山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
寿曽我対面 盛岡本組(本項)
盛岡や組
石鳥谷上若連
沼宮内愛宕組(本項)
盛岡本組(富沢)
盛岡や組(富沢)
石鳥谷上若連@A(手拭)
沼宮内愛宕組
寿曽我対面
(定型外)
石鳥谷上若連A(本項)
盛岡さ組@A
秋田角館 盛岡さ組@A
石鳥谷上若連B(手拭)
根元草摺引 石鳥谷上若連
盛岡さ組
石鳥谷上若連(本項)
盛岡観光協会・葛巻下町組(本項)
盛岡三番組@
盛岡三番組A(本項)
盛岡三番組(香代子)
盛岡さ組
石鳥谷上若連(手拭)
盛岡観光協会(圭)

石鳥谷まつりチラシ
盛岡三番組(富沢:色刷)
草摺引五郎 盛岡さ組
盛岡城西組見返し@A
土沢駅上組
盛岡さ組
夜討曽我(五郎十郎) 石鳥谷上若連
盛岡い組@(本項)
石鳥谷西組
盛岡い組A
盛岡い組B
盛岡い組
盛岡本組
盛岡い組(富沢押絵)

盛岡い組(富沢)
盛岡本組・平舘い組・盛岡三番組(富沢)
夜討曽我(五郎五郎丸) 盛岡十文字
盛岡か組
秋田角館(本項)
盛岡か組
夜討曽我(十郎仁田四郎) 一戸西法寺組
一万箱王 盛岡大工町 盛岡大工町(色刷)
五郎時致 盛岡よ組
盛岡三番組
盛岡よ組
盛岡三番組(富沢)
富沢押絵
五郎の踏み石 盛岡の組 盛岡の組
大磯の虎 盛岡い組@AB 富沢氏下絵
ご希望の方は sutekinaomaturi@outlook.comへ

※南部流風流山車(盛岡山車)行事全事例へ

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