秋田県秋田市 土崎みなと曳山祭り

 



 近郊の港町、土崎(つちざき)の夏祭りは「みなとまつり」の名で親しまれ、秋田有数の山車のお祭りとして知られています。当地では山車を「曳き山」と呼び、飾られる人形は越前谷時春という専門の職人さんが一手に請け負っており、他地域に類を見ない独特の仕上がりです。まずは強烈な個性を放つ、土崎曳山の人形について紹介します。

比較的辻褄の合った『曽我兄弟の仇討ち』(平成15年)

 

 

●土崎の裸人形

 

 土崎の山車人形には必ずといっていいほど裸人形、下半身を覆っただけの諸肌脱ぎの武者人形が使われています。髪もおおむね整えられず、バサッとしたところに太い鉢巻を巻いてあるだけです。漁師や職人の筋肉自慢とも、涼をとる夏祭りならではの趣向ともいわれる土崎の裸人形ですが、以前は現在のような頻出を見せず、そもそも必ず裸人形を使う定型などないとの話もあります。が、現在の形を見る限り不自然と感じる部分にまで裸人形を使うのが、土崎曳山最大の特徴です。地元では「秘伝の製法による肌の色が良い」とか「鋭い目つきがなかなか真似できない」とか当地の人形の様々な魅力が謳われており、当番に当たった祭り組が特に格好の良い人形を優先的に選ぶのだそうです。

 実際見に行ってみて、「山車の上の最も苛烈な人物」が裸人形で現されているのでは と感じました。寝込みを襲われた工藤祐経が諸肌脱ぎであったり、あるいは素浪人同然の格好の宮本武蔵が片脱ぎだったりというような納得できる例もありますが、戦場を疾駆する馬上の武者が全員裸であったり、敵陣に切り込んでいく上杉謙信が上半身裸であったり…と他地域の山車人形に慣れた観客にとってはかなり意外な演出で、まさにここでしか出会えない山車なのです。

 


双方裸人形の『川中島』、馬はひっくり返っている(平成28年)

 土崎の風流人形の構成をざっとまとめてみると、まず主役級の人形が2体ほど飾られてあって、これはたいてい裸人形、髭が生えて派手な動きが付いています。高い位置に、これと比べやや小ぶりでおとなしい人形が付き、こちらはおおむね裸でなく、きちんと衣装を着ています。騎馬武者については、小ぶりの人形を小ぶりな馬に乗せて作るのが普通です。女人形が上がる事はほとんどありません。取り上げる場面ごとにこれら2者乃至3者の役柄を割り振っていき、構図に説得力を与えるような小道具や趣向が添えられます。


ヤラレ人形の秀作

 祭りには大体20ほど曳山が出ますが、作風は大差なく統一されています。岩手でいえば平三山車と似た過程で作られるのでしょうが、平三山車の演題がおおむね人形師側で決められるのに対し、土崎で演題・構想を考えるのは基本的には町内側のようです。どこまで表現するか、逆に何を表現しないかについて非常に自由度が高いのが土崎人形で、たとえば表現しないの最たるものが裸人形であり、また源平の時代の武者が着ている陣羽織であり、紙一枚で表される城であります。それでいて風魔小太郎なら宙に舞う手裏剣、後三年合戦なら乱れ飛ぶ雁の群れ、塙団右衛門が夜討ちでばら撒いた木札に畠山が巴御前から千切り取った鎧の片裾まで表現してしまうので、分かりやすく注目を集めやすい。見る側に慣れが出てくれば、各趣向の細かな変わり映えを見つけるのが楽しくなります。

 人形おのおの、やはり非常に荒々しい表情をしたものが多く、組み付けも大変に躍動的で、動きを大きく作ってあります(特にも「ヤラレ」とよばれる潰し人形、倒れたりひっくり返っている人形の動き方が尋常でなく激しい)。裸人形をあらかじめ意識して、胸毛や腕の体毛を描き込んであるのも独特です。刀の類は口に噛んだ形にすることが多く、これも人形の凄みを増しています。


裸人形を使っていない曳山

 


 土崎の曳山組の中には「統前(とうまえ)」と名乗るところがいくつかありますが、これは一年間神明社の行事すべてを取り仕切る当番のことで、10年に一度回ってくるのだそうです。前述のように、この統前組が曳山人形を先に選んでいます。つまり統前の人形を見れば土崎人がどんなものをかっこいいと思っているか分かるのですが、実際チェックするとやはり裸人形が格段に多い。つまり、土崎には他地域をはるかに凌駕するレベルで裸人形に対する強い憧れが「残っている」のです(「ある」のではなく、敢えて「残っている」と書きました)。


 

みなとまつり曳き山 主な演題(直接確認分)

[平成15]
大嶽退治・南祖坊と八郎太郎・義経八艘飛び・夜討ち曽我[掲載]・将軍足利義輝の最期・毛利元就厳島の合戦・北条氏康河越夜襲・狼之助と山中鹿之助の一騎打ち・姉川の合戦・鳥居強右衛門[掲載]・九戸政実・関ヶ原の島津義弘敵中突破・宮本武蔵と宍戸梅軒[掲載]・大塩平八郎の乱[掲載]…ほか

[平成16]

加藤清正虎退治・仁田四郎忠常・池田屋騒動・大谷形部[別項掲載]・鵯越(義経・熊谷次郎・敦盛)・九戸の乱・前田利家…ほか

[平成28]

加藤清正虎退治(神明社置山)・朝比奈三郎[掲載]・幡隋院長兵衛・比叡山焼き討ち・足利茶々丸と北条早雲・五稜郭の土方歳三・大坂冬の陣・川中島[掲載]…ほか



北条リアクション入りの『朝比奈三郎義秀』(平成28年)

 上に挙げたほかに、私が良く知らない戦国武将の逸話や、地元史である安東鹿季・安東愛季の湊合戦なども取材されており、全体として戦国時代の題が源平ものより遥かに多い印象がありました。これは角館の演題選びに良く似ており、盛岡とは違う秋田人の嗜好が伺われます。現地で購入した資料によれば、それでもやはり人形に仕立てられやすい人物は第一に源義経だというのですが、非常に僅差で織田信長・豊臣秀吉ら戦国武将が取り上げられ、この2人が関わったほぼ全ての戦に加え、伊達正宗や島津義弘といった地方の梟雄の家臣の武勇伝など、特に戦国時代のものについて非常に細かい場面取りがなされているようでした。地元史ものも、坂上田村麻呂を筆頭に多く場面に上がっています(ヤラレ役が毛皮姿であることが多い)。レパートリーはかなり広く、昔は裸人形に刺青を書いて項羽と劉邦を作ったり、幡隋の長兵衛も刺青で、虎や猪・大蛇などの作り物も多用されるようです。
 以下に、私が土崎で初めて見て、以来お目にかかっていない当地ならではの演題趣向を幾つか紹介します。

 


聖徳太子物部守屋討(平成25年)

 

土崎で見られた珍しい演題

1、将軍足利義輝の最後
 室町幕府13代将軍足利義輝(あしかが よしてる)は俗に「剣豪将軍」として知られ、武勇に優れ、武運つたなく松永久秀(まつなが ひさひで)の謀反に遭い命を散らす瀬戸際にも、座敷の広間に古今の名刀を抜き身で刺し並べ、自慢の剣技を縦横に披露し攻め手を蹴散らした後に堂々と散った。
 松永久秀の人形を上方に据え、主役である裸人形の義輝は四方を名刀にぐるりと囲まれ、そのひとつを振り上げ敵に応戦している。



鳥居強右衛門(平成15年)
2、鳥居強右衛門(とりい-すねえもん)
 長篠合戦の折、徳川家康に仕える伝令役の足軽、鳥居強右衛門勝商は織田信長への援軍要請に向かい、派遣の内諾を取り付けた。信長は強右衛門の労をねぎらって城で休息を取るよう勧めるが、強右衛門は一刻も早く自軍に朗報を伝えるべく、すぐに城を発った。途中故郷に差し掛かり、実家で父の帰りを待つ妻子をちらりと窓から覗き見るが、任務大事と立ち寄らずに長篠へ急ぐ。思えばこれが、強右衛門の妻子との今生の別れであった。
 長篠の家康の陣に到着する一歩手前、運悪く呼び板のついた綱に足を取られ、武田方に捕らえられてしまった強右衛門は、武田方の軍師に情報の歪曲を強要される。「援軍来ずと自軍に叫べば一命を助けよう。織田の援軍を得られぬとなれば、きっと徳川は士気を落として蜘蛛の子と散るに違いない。」強右衛門は要求をのんで、長篠に対峙する自軍へむけて、その身を磔にされて掲げられた。武田方の誰もが、一介の足軽が命惜しさに嘘の伝令をすると信じきっていたそのとき、強右衛門の口から「信長様は早々に援軍を出され、この長篠に向かっておられる。」と信じられない叫びが飛び出した。徳川の陣屋は援軍来るの吉報に沸き、腹を立てた武田方は強右衛門を磔のまま串刺しにして殺してしまう。この後の歴史は誰もが知るように、信長の鉄砲の前に最強と謡われた武田騎馬軍が壊滅するのであるが、その契機を作ったのは、誰あろう命を賭して自軍に吉報を伝えた鳥居強右衛門勝商にほかならない。
 平成15年には最後尾の穀保町の曳き山として、裸で鈴のついた綱にとらわれながら、猶も武田方の侍衆を引き倒す強右衛門の勇士が描かれた。全曳き山中最もバランスが良く人形の扱いも適った抜群の作であり、いまだに土崎と言えば、私が思い出すのはこの山車である。

 

3、島津の退き口
 関ヶ原合戦は徳川幕府樹立のプロセスにおける不可欠の大合戦で、天下分け目といわれた。南国薩摩の梟雄島津義弘(しまづ よしひろ)は、徳川方の論功行賞の策略によってやむなく石田方に与したが、石田三成の傍若無人な立ち居振舞い、机上論に過ぎぬ浅はかな戦略と潔白への盲従に嫌気が差し、前夜の夜襲策を突っぱねられた腹立たしさも手伝って、合戦当日は全く石田方に協力することなく、援軍要請には矢玉をもって応える硬骨振りを示した。
 合戦も終盤、石田方敗退の色が定まり、西軍が総崩れにあえぐ中、義弘は一念発起し、兜の緒を締めるといいながら戦勝に気を緩めた徳川家康本陣を1000に満たない兵で急襲する。もちろん勝算を容れての事ではなく、西軍が散り散りになる中、敢えて死中に活路を見出し、全滅覚悟で数万の大軍を”すてかまり”の砲撃で破り、甥の島津豊久をはじめ多大の犠牲を払いながらも、何とか領国薩摩へ逃げ帰った。
 家康はこの驚異の敵中突破を目の当たりにし、西軍に与した大名のうち島津にだけはとうとう手が出せず、本領安堵とした。義弘のこの選択は、石田・徳川どちらに付いても島津の明日の無いことを悟った上での周到な決意であったといい、鹿児島の人々は今でも、関ヶ原のこの苦渋を糧に日々の苦難を乗り切る度量を備えているという。
 曳き山の『島津退き口』は、義弘に仕えた長寿院盛敦と井伊直政の一騎打ちに、義弘の人形を添えたものであった。



宍戸梅軒(平成15年)
4、宍戸梅軒(ししど-ばいけん)
 吉川英治の小説『宮本武蔵』より、鎖鎌の達人宍戸梅軒と武蔵が太刀を交え、利き腕を鎖に奪われる危機に瀕した武蔵は咄嗟に左腕にて脇差を抜き、見事梅軒の脇腹を貫いた。二天一流、すなわち後の武蔵の流儀である二刀流が誕生する果し合いとして、武蔵の伝記のひとつの佳境とされる。
 巌流島の取材はよく目にするが、梅軒との果し合いは土崎特有の趣向であって、両者とも片脱ぎの裸姿が良く似合い、傍らには武蔵の父の新免無二斎が飾られている。

 

大塩平八郎(平成15年)
5、大塩平八郎

 大阪奉行所与力の大塩平八(おおしお へいはちろう)は、洗心洞という私塾を大坂に開いた陽明学者でもあり、学者としては中斎と名乗った。自らの信ずるところ、すなわち非を見て正さざるの怠慢を恥じて民を救わんとの志は官僚主義の公儀から矢継ぎ早につき返され、私書を売り払い施し粥に変えても焼け石に水と自らの無力を悟った中斎は、歴史に名高い反乱を企てる。大塩の乱そのものは一日で敗れたものの、その志に応える動きが全国に伝播し、ついには幕府の屋台骨を揺るがす大きな一因となった。
 土崎の大塩平八郎(立て札には「大塩平八郎中斎」)は、かなりいかつい顔で乱の様子を見守っている。

 

 

 

  土崎山車の構成

 

 山車に表現した場面に「外題(芸題・ゲダイ)」を付けるのは他地と同じですが、土崎の場合、特に描かれている場面を短い詩のように表します。例えば九戸の乱の曳山には「智勇の武将二戸の激闘」、夜討ち曽我に「悲願十八年裾野の仇討ち」、山中鹿之介に「満ちぬさだめか出雲の三日月」、この土地ならではの頻出演目である姉川合戦には「震怒前田の槍に散る小谷の虎」…というように個性と意趣に溢れる場面解説の見出しを考え、「附けたり通り囃子」と添え書きして表札に仕立てます。外題を記した表札のほかに、人形各々があらわしている人物名を一体毎に付けますが、これは角館や山形の新庄など、東北日本海側の風流山車に広く共通するものです。

 


曳山全景(やや横から)

本多忠勝(平成25年)

 飾り方は角館同様、暗幕を反古に掛けて山を作り、それに松(生木で、若松を使う)や造花の桜、はっきりわかりませんが5色程度の彩りの良い造花一束、下方にはねじこを配します。土崎の場合、山は夫婦岩を模しており、中に神明社のお札を納めてあります。角館と比較して特長的なのは、南部と同じ波の絵と波出しの飾りが見られることで、夫婦岩の境目に水が流れている様子は、古風な滝山にも見えます。水の意匠は浮世絵のようでなく、より原始的な絵柄です。

 一般に、土崎の山車は表よりも背面の送り人形が面白いともいわれます。これはいかにも粗雑な1体だけの人形に背広を着せ、時事を風刺する川柳を添えて飾ったものです。南部領の豪華な見返し人形に比べると、角館にしろ土崎にしろいかにも簡素に過ぎて驚きますが、「送り人形はウケを狙うもの」というのが秋田の感覚らしく、平成15年の送り人形には、大地震の折に仕事を顧みずパチンコに熱中していた秋田県副知事を痛烈に揶揄するものが多く、ブッシュ批判や阪神タイガースの快進撃をたたえる趣向がそれに続いていました。送り人形に付く川柳は土崎に見られる唯一の山車評価制度の対象となるもので、山車を出す各町内の趣向の凝らしどころです。

 送り人形の下には囃し方の乗る櫓が作られ、四方に赤い行灯で枠を囲ってあります。行灯に書いてある文句はかなり現代風で田舎祭りらしく泥臭く、優美ではありません。下のほうに水色で波を描き、また上方には紙飛行機のようなものを竹でいくつもつるして、遠くから見ると、送り人形にカモメが集まっているようにも見えます。

 

 囃しは3種で、リズムの早い「寄せ太鼓」はお通り前など町内毎の運行事に囃し、神輿が曳山のそばを通る時も使います。秋田の竿灯祭りで聞くお囃子によく似ています。全ての山車が連なって土崎の中心街を練る時は、かなりスローなペースのお囃子に変わります。太鼓の打ち手が体をゆらゆらと揺らしながらたたくのが異様で、印象に残りました。夜のお囃子は別の曲ですが、やはりスローペースです。激しい引き回しの際には石油缶に石をたくさん入れたものを振って景気をつけるので、笛・太鼓・鉦のほか、この石油缶も湊ばやしの重要な楽器といえるかもしれません。

 

 


前九年合戦:落馬した貞任(平成25年)

 

●土崎の引き回し方

 みなと祭りの土崎を歩いていると各家々の玄関口に盛り土がありますが、これは土崎神明社から配られた神聖な土、盛り上げて御幣を立てて結界をつくるのだそうです。曳山運行の協賛を示す祝儀札は外題を記したお札状で、これも家々に並べて張り出される例を散見しました。

 

 山車の引き方にも、幾つか特色があります。「大八の心棒が焼き切れる」といった危機感は盛岡地方の山車でもいわれはするものの、観衆の皮膚感覚として私自身感じた事はあまり多くありません。土崎に来て初めて「嗚呼、こういうことか」と思いました。何しろ、木製の地車を走りながら引くものだから、4つの車輪全てからもくもくと煙が立ち昇り、木の焦げる匂いがあたりに立ち込めているのです。土崎曳山の運行は、基本が「走る」ことであり、走る速度で見てグッと映えるような人形趣向も割りと多くあるようです。佳境の時には引き綱を横方向に波打つように、ウェーブを描くようにジグザグに引き子が走って曳く荒々しい光景が楽しめます。東日本になかなか無い緩急ある引き方です。菜種油の焦げるにおい、車の滑り止めのおがくず、車を動かすための必需のものがこれほど立場を主張する山車祭りも珍しい。そういえば路面も油だらけで、車の擦れた後がくっきりと残っています。山を動かす、その活動そのものに、土崎の人々はたまらない喜びを感じているように思えました。

 

戻り曳き山、無灯・ノンフラッシュ撮影

 最佳境といわれる「戻り曳山」では、夜9時を過ぎた頃に町の一角をスタートした曳山が次々に繁華街をにぎわし、本部前を派手にカーブして本拠へ帰っていきます。この夜間運行ではすべての山車が背面に綱を付けて曳いています。昼間も「運行上の都合」としてこのスタイルで進むことはありますが、夜の戻り曳山で各組一斉にこの引き方をするのは、正面の飾りにほとんど照明機能が無いからです。同時に、本来の背面から進んでくる曳山が「戻り」すなわち祭りの終わりが近い事を物語りもします。

 戻っていく曳山の背の部分に人形が見える。人形部分を照らすために、竹竿に大きな提灯を吊るしてボーンと手前に2、3個。人形への照明はこれだけで、後は町の明かりが照らします。運行地点によって表情を変える人形飾り。どちらかといえば無骨で粗雑な土崎の山車も、特にこの演出の元では素晴らしいものに映ります。曳き子に遮られず丸ごと見える山車飾りが道の真ん中を埋める、ドーンとした存在感・重量感。角館といい土崎といい、秋田の山車の照明はすごい。

 

 引き子は皆白地の浴衣姿であり、全員が各々の役職を書いたタスキを掛けています。土崎の若者は祭りを通してきちんとおのおのの役割を果たすことを覚え、大人になるとのこと。辻辻で披露される「秋田音頭三段返し」などの手踊りは皆このタスキがけの若者による威勢の良いもので、壮麗で優美な角館の踊りとは違う荒っぽいものですが、上手な踊りもたくさんあります。交通規制下のゆったりした運行なので、曳山が止まるたびにこれら余興をたっぷり見ることができます。

 

 

 土崎は、秋田市市街の目新しい華やかさとは別個の、古びた温かい懐かしい港町です。ここに、他に迎合しない生粋の荒さ、洗練の無さ、おそらく草創期からほぼ形を変えず荒々しいまま残ってきたと思われる曳山祭りが、なんとも熱い東北の夏を演出し続けています。(平成15・16・17・25・28年見物)

 

(曳山の運行概要)


鬼童丸市原野(平成25年:穀保町待機時)

7月20日(宵宮):各組神明社に曳山を引いてくる(「郷社参り」)が、基本的には自由運行か

7月21日(本祭):午前11時までに全曳山が穀保町集合→午後一杯、日中合同運行「御幸曳山」→夜9時から深夜にかけて「戻り曳山」夜の合同運行(先頭出発20:30か)

写真・文責:山屋 賢一

※秋田・山形の人形山車祭り一覧

 

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