南部流風流山車行事データ
石鳥谷の山車 いしどりや/岩手県花巻市石鳥谷町好地
毎年9月8日に熊野神社に奉納される下組、上若連、中組、上和町組、西組の5台の山車。正式な形の盛岡山車の最南端の伝承例で、地元では「南部流風流山車」と呼ばれている。
盛岡の山車と比べると、石鳥谷の山車は使われている花の種類が多く数も多く、全体として派手な色味である。2通りの染め方の桜が両側に飾られ、前後には雪洞(御神灯)が付き、立岩は背景画を…などの作法がかつては共通して見られた。演題を示す立て札も、白塗りにする組・必ず下に組名を記す組・題に仮名を振る組・上に板を付けず先を山形に切るだけの組等、工夫が見られる。見返し人形はまるで陶器のように磨き上げられ、台に上げ飾り位置を高して見栄えを良くしている例が多い。電飾は松に電球を吊るす手法が比較的長く、各組共通で行われてきた。囃子にはもともと笛が入らなかったが、これは花巻の「女祭り」に対して「男祭り」を意識し勇ましさを強調する意図であったという(現在は笛入り)。大太鼓のリズムに合わせて山車を激しく揺らし、掛け声をかけながら威勢よく引く。
すべての山車が合同で動く機会は【8日午後1時出発の熊野神社神輿渡御】と【10日夜6時からの夜間パレード】で、夜はどの日も9時ごろまで山車が運行している。午後から夕方までの運行を「昼の部」、夜6時半ころからの運行を「夜の部」として、いったん引き子を解散させ食事を摂ってから集まる形式を長年にわたって取っており、昼の部終了時点で山車は小屋入りをする。そのため基本的には、各組地元周辺を回っての自由運行となる。
祭典ポスターには他地域のように前年の山車写真を使わず、当年の山車絵紙から1点をシルクスクリーンにて大きく刷り出して作り、これを各店舗に有料で頒布していた。絵柄は昭和62年から平成7年までは上若連のもの・平成8年から平成19年までは下組のもの、以降は当年のパレードの先頭を務める組の絵が交代で使われ、令和元年には全ての組の絵紙がポスターに上がった。
(祭礼の簡単な経緯)
熊野神社祭典の付け祭りは明治期は神輿だけであり、末頃になってリヤカー・荷馬車に手作りの人形と岩・花を飾った山車が出るようになった。大正中期に町内の3酒造会社が費用を出し合って盛岡の油町(消防六分団 二番組)から山車飾り一式を借り上げたのが「下組」の最初の山車で、戦後も下組がかなり早期に山車行事を復活させ、以降「上組(上若連)」「中組」…と続いている。一時交通事情により7年ほど中断したが昭和50年代に復活し、この時に新興住宅地域からも山車が出るようになり(「上和町組」など)、昭和55年に「第1回いしどりやまつり」を称して以降は町をあげての秋祭りとなった。
【写真 パレードでの音頭上げ(下組平成12年『熊谷陣屋』)/夜の運行(中組昭和60年見返し『猩々』)】
下 組 しもぐみ
石鳥谷における山車組の元祖。町内の3つの酒屋が盛岡の本町から指導を受けて山車を製作・運行したのが始まりで、戦後間もない時期にも山車を出し、町民を勇気付けた。 (ページ内に公開中)
児雷也 島の為朝 朝比奈三郎 静御前 熊谷陣屋・藤の方
もともとは大振りな裸人形の山車を得意としていた組で、現在も昔からの特徴のある大人形が山車づくりの軸となっている。平成7年から人形を含む飾り一式を自前で作り始め、平成10年以降は顔や手足を毎年塗り直し、珍しい歌舞伎演題もよく採り上げている。『藤の方(熊谷陣屋)』『おわさの口説き(弁慶上使)』『渡海屋(碇知盛)』など、見返しは基本的に表裏一体の趣向とする。
桜は基本的にはふちを染めた立ち桜だが、見返しには地をかするほど長い芯染めの枝垂桜を飾り、長らく広告入りの紅白提灯を縦に繋いで見返しに吊るしていた。牡丹は前から後ろに流れるように点滅する。
最終日のパレード後は「御花御礼」と朱書きした紙を表裏の演題立て札に貼り、人形飾りに乗り込んで騒ぎながら曳く恒例がある。
【写真 平成13年『御所桜堀川夜討三段目 弁慶上使』、盛岡山車で唯一の採題例】
時 期
概 要
昭和60年より前
(山屋未見物)現在も使われる大人形の初出は昭和30年代カ
⇒同人形を使い、盛岡や日詰で出た趣向をいくつか再現している
昭和50年代:表に演題解説を記した屏風のようなものを飾った
松や大岩よりも高い位置に人形の頭が在る飾り方
見返しにはお爺さんの人形をよく使い、『舌切雀』『浦島太郎』『養老の滝』など演題幅を増やした
演題札を白く塗り、下に「下組」と横書きした(〜昭和末)
笛・鉦の無い囃子(昭和53・55年映像より)
平成3年まで
駒木人形を自前の頭に付け替えた山車、手足の付け替えや背景足し等もなされる、S62〜カ
(うちS61〜H元は日詰の橋本組の題材を2年遅れで追う形)
飾り方は他地域の駒木人形山車とは違い、桜の両側飾り・松と桜の間に紅葉を配す等当地流であった
平成元年から、題材札が白木に変わっている
平成6年まで
演題札がレタリングになる(平成4年から)
平成4年と平成6年は盛岡さ組の山車人形がそのまま登場、見返しは自前か
平成5年も頭の付け替えはなし、体勢や衣装は変化
平成5年時点では、笛は入っていない
飾り方は他地域の駒木人形とは違い、例えば桜は両側飾りであった
⇒平成6年から、桜が片側飾りになり雪洞も外れ、山車の全景が盛岡と同程度の渋さに
平成9年まで
平成7年、『日本銀次』を完全自作・見返し『花咲爺』で久々に翁人形を遣う
顔は塗り替えずそのまま使用
絵紙は盛岡等の絵柄に近い〜平成11年
平成10年以降
平成10年『和藤内』で自前の大人形を歌舞伎塗りにし、以降はおおむね毎年頭を塗り替えている
平成11年から見返しに酒樽を置かなくなり、代わりに酒屋の提灯を縦にいくつか繋いで見返しに下げるようになる(〜平成19年)
平成11年の『源九郎狐/静御前』以降は、可能な限り表裏で趣向を連動
絵紙が盛岡流の模写でなく、組自前の絵柄になる
※平成11年はポスター・チラシは自前の絵、手拭いには盛岡流れの絵を使った
平成21年以降
題に振り仮名が入る(平成初期に中組・上若連に見られた工夫)
楼門五三桐 大伴黒主 四ツ車大八
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上若連 かみわかれん
借り上げ時代はめ組頭の武者人形の山車組で、さらに遡ると花巻型と思しき作風(小さめの人形、大人しい顔、紙牡丹等)が散見される。次第に華のある歌舞伎ものを出すようになり、平成3年に沼宮内新町組の指導を受けて以降は片側桜・三段松の飾り方年、現在は県内有数の製作技術の高い山車組として内外から注目されている。
立ち岩の位置を自由に動かし、時には極端に狭い舞台で見返しを作ることもある。人形の支えが極力見えないように組み付けるのが信条で、歌舞伎・武者双方で躍動感に富む上品な山車が多い。見返しの背景は屏風に仕立て、独特の美しい絵柄で飾る。普通の桜のほかに、花びらを極端に小さく作った枝垂桜を見返しにつけた年もある。
笛の旋律が町内で唯一八幡町い組風で、大太鼓の拍子も一つ多い。番付手拭いの帯を盛岡地方の絵紙帯に似せており、中身は上若連の字が表に出るようにたたむ。
【写真 昭和60年『夜討曽我』、現在とは異なる石鳥谷共通の飾り方時代】
時 期 | 概 要 |
---|---|
昭和60年より前 (山屋未見物) |
盛岡の鉈屋町から武者人形を借りて山車を作っていた(〜昭和56年頃) そのまま使わず、背景を描く等工夫を加えていた 正面下部(現在提灯が並ぶ位置)に切り花を差す垣根が着き、提灯は両サイドに設置 |
平成2年まで | 主に1体歌舞伎の山車、桜は2色を両側に飾った 山車絵は昭和62年から、昭和63年の『暫』は自前の絵 |
平成7年まで | ポスターの山車絵は必ず上若連のもので、絵柄は自前で描くか、富沢茂氏の絵を使うかのいずれかであった 平成5年時点で、笛は現在とは違う曲 |
平成8年以降 | 見返しの背景画(趣向と直結しないもの)を平成17年ころから工夫し始める |
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羅生門 鳴神 巴御前 車引@ 五条の大橋 毛剃 雨の五郎B 鵺 本能寺
中 組 なかぐみ
盛岡の馬町などから人形の頭・手足を借り、古くから自前で人形を組んで山車を作っていた。一切業者に任せず飾り一式・手拭いまで自前で仕立てるのが伝統であるとともに、組の自慢という。 表の人形はほぼ1体ものに限っている。昭和60年から衣装に「綿入れ」という独自の手法を施しているが、これは木綿の衣装に厚みを持たせて量感豊かなものにする工夫である。見返しは極力表裏一体の趣向を探し、他地域・他の組に無い高尚な趣向を多く採っている。酒樽はかつては町場の3組に共通して見られたものだが、現在は中組のみが見返しに添えている。
山車の前後に豪華な朱塗りの枠の雪洞を伴い、台車は赤く塗装している。笛は出だしのみ八幡町風だが全体は盛岡の主旋律に近く、山車の後で数名が吹く。番付手拭いは年によって人形部分だけの絵にすることもあり、音頭は入れない。帯は盛岡地方の絵紙帯に似せている。 (ページ内に公開中) 四条畷@ 日本銀次@ 梅王丸@ 鏡獅子A 苅屋姫 碇知盛A 小楠公の母 上和町組 うわまちぐみ
桜は立ちと枝垂れの両方を使い、染め方も2作法を併用している。藤は細い花房を何本か束ねた独特の形で、表用は紫・見返しに飾るものは限りなく白に近い。立ち岩に岩肌を模す凹凸があるが、黒一色で着色は無い。演題札は上部を山形に切ってあるだけで、他のようにハの字に木を添えない。
【写真 平成9年『鏡獅子』、後に盛岡でも使われた新構図】
昭和50年代に石鳥谷まつりに参加、もともとは下組の管轄下にあった西部の住宅地が独立する形で山車を出した。そのため基本的な囃子・作法は下組と同じである。
草創期は八戸の廿六日町から菊人形風の人形を何体か借り入れ・あるいは山車作りを委託していたが、年を経るごとに青森南部の雰囲気が消え、他の組のような盛岡流の飾り方に変化していった。「風流」の冠は、盛岡型でない時期から使っていたようである。人形は平成元年頃に他の組と同じくらいの大きさになり、平成8年『秀吉』を完全自主製作、以来東和町に伝わる「やまと流」の山車人形を製作し、他の組とは異なる趣に仕上げた。平成17年ころから囃子・飾り方を沼宮内風(片側桜・縁染め・右飾り等)に変化させ、平成25年『加藤清正虎退治』で沼宮内新町組の虎を上げて以降は、沼宮内の山車人形(頭・手足)・作風を容れている。見返しの松の上部に見える紅葉は、八戸山車起き上がりの名残という。
【写真 平成7年『弁慶立ち往生』、八戸の山車人形による】
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西 組 にしぐみ
石鳥谷18区町内会による手作りの山車で、他の団体より一まわり小さい。表札に彩色を加え、模様などを描いている。パレード・門付けを見る限り、他の組のような演題を読む音頭歌詞は無いようである。
長らく繁華には例年最終日のパレード時のみ下るのが通例であったが、近年は8日のお通りでも他の団体とともに運行するようになった。自由運行の日・時間帯は、商店街西裏の通り(バイパス沿い)・ジョイス周辺の住宅街などを運行している。最終日の日中は熊野神社に参拝した後、商店街に下る。
他の4組と同様山車絵入りの手拭を祝儀返礼に作り、盛岡絵紙と似せた帯を付けている。松には電球型の蛍光灯を吊るして電飾する。
・上和町組、例年6時頃から夜間運行開始(主に駅より西側)。
・pm7:00すぎ、下組山車が駅前通り(地元下町)を巡行。春日流八幡鹿踊り・同じく八日市鹿踊りが町内を門付けまわり(駅周辺をチェック)。
・pm7:30ごろ、上若連・中組・下組の3台が石鳥谷商店街で自由運行。往路は直進、復路で音頭上げ。おおむね8時半ごろまでは運行する。
9月9日 【写真 9日午前の熊野神社神楽奉納】
(場所を変えながら都合3回程度踊る)
○pm3:00ごろ、郷土芸能パレード。
(北上みちのく芸能まつりのように、商店街路上を6〜7の踊りスペースに割り振り、指定された会場に着くまでは移動用の簡単な踊り・チラシ拍子などでパレードし、指定位置で15分程度の演舞を行う。これを3回程度繰り返す。パレードを終えた郷土芸能団体のいくつかが、駅前通などで門付けを行うのが慣例)
○pm4:00ごろ、ふれあい山車パレードとして下組山車が商工会長・祭典実行委員会などをともなって巡行。
(※この時点での各組の山車の居所
上若連は小屋入りしたまま待機、この日は夜しか動かない。
下組は商店街南側に山車を止めて待機、付近に筆書きでその年の演目を詳しく解説した看板を立てる。ふれあい山車パレード等で商店街を北上。
中組は山車を小屋の前に出したまま夜まで動かない。
上和町組は昼過ぎに地元から駅前に降りて、駅前から商店街東側の通りを北上、上若連の車庫前へ。
西組の山車は、熊野神社で待機後、pm4:30ごろに商店街西側裏通りを巡行。
〜pm5:00すぎに5台全ての山車が商店街北端に集結する。)
○pm5:30ごろ、練り神輿パレードがスタート
(※練り神輿も昼間はパレードの合間を縫って門付け、音頭上げをしている)
○pm6:00 南部流風流山車合同パレードスタート
(※当年のポスター山車を先頭に一台ずつ本部前へ、本部での音頭上げをクライマックスに商店街をにぎやかに南下。本部席に至るまでに解説される各組の演題の由来を聞くと、直後に詠われる音頭への感慨もひとしお。5番目の山車が本部席前を通過した時点で、1日かけたこのパレードも終着となるが、それ以後も商店街はにぎわう。パレードは商店街南端の駅前通り交差点で解散。)
その後、上若連、西組、中組はすぐUターンを開始。再び商店街を音頭を上げながらゆっくり北上。
上和町組は直帰するので、パレードで見納め。
下組は小屋前で休憩したあと、「御花御礼」を朱書きした紙を表札にはって商店街を北上。こちらは結構ペースが速く、商店街北端の上町交差点前まで来て再び南下。
全ての山車が小屋に帰り着くのはpm9 :00の少し前。
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