盛岡山車の演題【風流 碇知盛】
 

碇知盛

 



一戸町本組平成24年

 『碇知盛(いかり とももり:錨知盛とも)』は、平家が滅亡する壇ノ浦合戦(だんのうら かっせん)の一場面を写した演し物である。「知盛」は平清盛の四男で壇ノ浦合戦の総大将をつとめた新中納言平知盛(しんちゅうなごん たいらのとももり)、「碇」は船を海上に停止する際動かないように沈めておく錘(おもり)をさす。
 義経の活躍で不利な戦況を覆した源氏に押され、平家の一門はもはや勝ち目の無いことを悟る。二位の尼(にいのあま:知盛の母)は幼い安徳天皇(あんとくてんのう)を抱きかかえると、「海の底(あるいは波の下)にも都の候」と耽美の言葉を残し、そのまま荒波に身を投じた。三種の神器をささげた平家の女官たちが、後を追って次々と入水していく。知盛は一人、また一人と命を落とす自軍のつわもの達を波間に遠く見据え、「見るべきものはすべて見た、いまはこれまで」と船首に掲げられた大きな碇を担ぎ、かっと源氏の白旗を睨み据えると、満身創痍(まんしんそうい)の体を艫綱(ともづな)に託して海中深く沈んでいった。

「碇斜め」川口み組平成18年

 この壮絶な入水(じゅすい)の姿は、亡骸さえ敵方に渉るのを恥じて海底深くに沈めようとする平家武者の最後の意地である。惣領の宗盛(むねもり:知盛の兄)が無様に死に遅れたのと比べ、決して生き延びるまいという知盛の潔い自決の姿は後世の武士たちの崇敬を集めた。もともと鎧をふた掴み纏い身を重くして入水したという逸話だったが、能の「碇潜(いかりかづき)」以来上記のようなエピソードに発展し、謡曲「船弁慶(ふなべんけい)」や歌舞伎の「義経千本桜」など名舞台に採り上げられて有名になった。

 知盛が大碇を両手で差し上げるところを山車に作る。人形の胴には、幾重にもわたって碇の艫綱が巻かれる。碇と船の双方をいかに目立つように作るかが製作上最大の留意点といわれており、特にも碇は、大きく見えるほど良いという。碇を真一文字に掲げる例がほとんどだが(写真1)、一方の腕を伸ばして片方を曲げ斜めにかざす工夫も功を奏す(写真2)。髪型は、死に行く戦士の運命を象徴するざんばら髪である。一戸の野田組は振り乱した長髪の一部を赤くして、流血を表現した(平成13年)。月代を剃っていない長髪を乱したような顔も稀に登場しており(写真3)、時代考証からすればこの方が正しく、盛岡の一番組は必ずこの形で碇知盛を作り、船の丈は他より低くする。髭は無いのが主流だが、盛岡の橘産業・石鳥谷上若連・沼宮内の大町組で髭を足したことがある。直垂の形の調整などで、知盛の装束を平家の公達らしく見せる工夫が稀に見られた(一戸上町組平成12年など)。

「わらわ髪」沼宮内愛宕組平成24年

 碇は歌舞伎の小道具に見られるような鉄の碇で、源平合戦当時の形は再現しない。色は地金の墨色が多いが、茶色に錆びて苔むした碇・銀の碇など、工夫を凝らしたものもあった。一戸では、黒い碇を金や銀で縁取ることが多い。艫綱は太い荒縄のほか、白・赤・紫に染めた布袋を撚って作ることもある。

 沼宮内の新町組は、落ち武者に碇をくくりつけた体・くすんだ色味の異様な碇知盛を作った(平成9年)。錦絵の構図から採ったようだが、私が最も鮮明に記憶する変化型の碇知盛である。艫綱は従来のように綺麗に胴に巻くのではなく荒々しく四方から絡み付け、それが知盛の疲弊ぶりを醸していた。両腕も、綱と同じように碇に絡んでいた。船は省いて大岩を足場にしていたが、数年後に同町の川口で同じ趣向を取り入れたとき(平成13年)は、船に乗せて作った。
 碇を持ち上げず、肩にかけた格好とした碇知盛もあった。沼宮内のの組は、知盛が海に身を投げる瞬間を構想してこのような体勢としたらしい(平成元年)。石鳥谷の上若連が構図を写した際は顔を公家侍らしく白面にし上品な口髭を入れ、歌舞伎の見得を切ったような姿に作った。川口の井組も一度、この構図を試している。

「碇立て」石鳥谷上和町組平成29年

 碇を掲げない碇知盛もあり、平成期には沼宮内の愛宕組と一戸の橋中組とで似た構図が採られた(前者が平成11年、後者が平成18年)。碇は脇に抱え込み、もう一方に長刀を立てて波間を見据える形であった。前者は船無し・後者は船ありでわらわ髪、道具のところどころに菊の御紋をあしらうなどしてこの構想を完成させた感がある。
 碇を立てた構図は昭和40年代に一戸(野田組)や石鳥谷(下組)で出て、平成に入ってからは沼宮内の新町組が使い、石鳥谷に移入した(写真4)。この方が碇を大きく作れ、質感をよく見せられると聞いた。
 脇に源氏の兵を足して2体にしたのは石鳥谷の上和町組で、これが私が初めて見た碇知盛の山車である。昭和晩期の、まだ八戸山車の影響が残る頃の作例であり、兵卒は知盛に薙刀を向けているが、目線は通さず知盛は正面やや上を向いて碇を掲げ、顔には青痣や流血が表現された。盛岡の紺屋町消防団(よ組)に残る山車の構想図にも知盛に蹴落とされた兵を添えて2体の趣向を描いたものがあるが、これを実際に山車に出したかどうかはわからない。

石鳥谷中組平成26年

 歌舞伎の「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)」に、平家一門が実は生き延びていて、都落ちする義経主従を船幽霊に変装して襲うという筋書きがある。戦場は壇ノ浦でなく摂津の大物浦(だいもつうら)で、再び敗れて入水を図る場面の知盛は鎧も直垂も真っ白で、顔も白塗りに青い隈取(くまどり)と、恐ろしい返り血の化粧が入る(写真5)。このような歌舞伎の「白い碇知盛」は石鳥谷で何度か山車に出た他、小型のものを紫波町十日市・二戸駅前石切所で見た。盛岡では平成29年初出、戦前の絵紙・各所に残る山車の押絵にもこのスタイルの碇知盛が散見されるものの、実物にはほとんど反映されなかったようである。歌舞伎では知盛が船の上でなく岩場から入水するが、山車では船あり・船無しがだいたい半々で登場している。舞台上の派手な血しぶきをどこまで山車人形に再現するかについて山車組・地域間で議論があり、例えば盛岡のの組は絵紙には血しぶきを描いたが、実物には一切入れなかった。ここまでの作例を概観すると、顔に血の化粧は入れても白衣装に血を散らすことはほとんど無いようである。なおこの物語での知盛は幼帝を義経に託し未練なく散っていくのだが、音頭には「恨み尽きせぬ」「壇ノ浦」等誤解して歌われることが多い。
 千本桜の白い碇知盛は平成に入って、新たな山車の題材をいくつか派生させている。日詰一番組の『新中納言知盛(しんちゅうなごんとももり)』は「白い知盛」の敗れる前の姿を採り上げ、一戸本組の『渡海屋銀平(とかいやぎんぺい:作中での知盛の偽名)』はストーリーのみを写し白装束に鎧を二枚着せた。石鳥谷では下組が『渡海屋』と題して亡霊姿の知盛の出発場面を碇知盛の見返しに上げ、上若連は知盛に数珠を手にした弁慶を合わせた『大物浦(だいもつのうら)』を出している。

 碇知盛の見返しは前述した『渡海屋』の他、尼姿の『建礼門院(けんれいもんいん)』『二位の尼』などが飾られた。前者は平氏から天皇家に嫁いだ女性で安徳天皇を産み、平家滅亡後は京都大原で尼になり一門の菩提を弔った。幼帝と三種の神器を道連れに海に身を投げた二位の尼(平時子:たいらのときこ)は、平清盛の妻・知盛の母である。前述の千本桜で知盛とともに自害の道を選ぶ安徳天皇の乳母『典侍局(すけのつぼね)』は、石鳥谷の中組が歌舞伎知盛の見返しに上げている。

岩手県二戸市の「平三山車」

  (他の地域の「碇知盛」の山車)
 九州に行ったとき、「碇知盛は東北限定の演題や」と教えられた。確かに全国的にはあまり無い外題で、かつ東北では青森ねぶた、弘前ねぷた、八戸山車(青森)、角館飾山(秋田)、新庄山車(山形)などほぼ全域で製作されている。新庄では顔半分が血だらけの碇知盛が毎年のように出るが、これは壇ノ浦の戦いではなく義経千本桜の大物浦の場面である。角館でも同様で、武者ものの碇知盛はほぼ出ない。八戸山車はほとんどが船弁慶の脇役として登場する碇知盛で、知盛は主役であっても怨霊に化けた姿である。二戸の平三山車でも、現在は青白い顔で額に血をたらした知盛人形が使われている(写真6)。
 確かに、盛岡山車のような人の肌の色をした碇知盛は少ないようである。



文責・写真:山屋 賢一

 


(ホームページ公開写真)

定型(一戸山車)   碇肩掛け(川口山車)  碇脇抱え(一戸山車)     碇立て(沼宮内山車)   隈取・船あり(日詰山車)  隈取・船無し (盛岡山車)



山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
定型 石鳥谷上和町組
一戸上町組
一戸野田組@AB
沼宮内大町組
川口み組(本項写真2)
志和町山車
一戸本組(本項写真1)
沼宮内愛宕組(本項写真3)
盛岡城西組

一戸橋中組@A
盛岡穀町
石鳥谷下組
盛岡一番組@A
盛岡橘産業
沼宮内愛宕組@A
一戸本組
盛岡城西組(富沢)
大迫下若組
一戸上町組・一戸本組(国広)
一戸野田組(富沢)
沼宮内大町組
志和町山車

盛岡穀町
沼宮内愛宕組
盛岡一番組(国広)
盛岡穀町・盛岡橘産業・一戸橋中組・一戸野田組(国広)
肩掛け 石鳥谷上若連
川口井組
沼宮内の組
石鳥谷上若連
落ち武者 沼宮内新町組
川口井組
沼宮内新町組
掲げず 沼宮内愛宕組
一戸橋中組・日詰下組
一戸橋中組
碇立て 沼宮内新町組
石鳥谷上和町組
日詰橋本組
石鳥谷下組
石鳥谷上和町組

一戸野田組
隈取 二戸石切所中央一区
石鳥谷下組
石鳥谷中組
日詰橋本組
盛岡の組
一戸西法寺組
石鳥谷中組

秋田角館
盛岡の組
一戸西法寺組
石鳥谷下組(手拭)
石鳥谷中組(手拭)
ご希望の方は sutekinaomaturi@outlook.comへ

(音頭)


若き武勇を 碇(いかり)にこめて 帝(みかど)護りし 壇ノ浦(だんのうら)
(べに)の幟(のぼり)か 波間の白か 碇知盛 これにあり
碇知盛 平家の最期 たぎりて落つる 潮
(しお)の中
碇知盛 最期の海へ からだ巻かせる 碇綱
平家名うての 若大将
(わかだいしょう)が 碇身につけ 壇ノ浦
見るも勇まし 大物浦
(だいもつうら)に 最期(さいご)を飾る 大碇(おおいかり)
碇綱へと からだをまかせ
(巻かせ・任せ) 知盛最期 荒海へ
花の若武者
(わかむしゃ) 知盛が 屋島(やしま)の沖に 奮戦す
花の若武者 知盛強く おごる平家は 屋島沖
(しのぎ)削りし 屋島の浦の 波も静まる 御代(みよ)となる
みなぎり落つる 渦潮
(うずしお)ついて 鎬削りし 壇ノ浦
源平両軍 死力を尽くし 雌雄
(しゆう)決する 壇ノ浦
陣の羽織
(はおり)に 碇をかざし 勇む知盛 壇ノ浦
この戦いに かけた願いも 碇とともに 壇ノ浦
碇知盛 波間に消える 恨
(うら)み尽きせぬ 壇ノ浦
碇知盛 船もろともに 尽きぬ恨みの 壇ノ浦
悲運一天
(ひうんいってん) 波の脊(せ)黒く つなぐ恨みの 碇綱
御座船
(ござぶね)護る 知盛最期 恨みは深き 壇ノ浦
この身世になく 恨みは深く 碇しずめる 壇ノ浦
見るべき程の 事をば見つと 碇巻きつけ 仁王立ち
(におうだち)
碇知盛 この世の限り 見るべきものは 全て見つ
鬼相
(きそう)知盛 最期を悟り 碇もろとも 壇ノ浦
仁将
(じんしょう)知盛 平家の亀鑑(かがみ) 栄華(えいが)みじかし 壇ノ浦
平家一門
(いちもん) 栄華の夢も 海の藻屑(もくず)と なりにけり
「あだに思うな」 安徳
(みかど)のことば 恨み捨て去る 碇綱
碇担いで 大物浦に 勇将
(ゆうしょう)知盛 力尽く
海底
(うみ)の御幸(みゆき)に 供守(とももり:知盛)せんと 沈む恨みの 碇綱
海の底なる 帝の行幸
(みゆき) 従う知盛 寿永(じゅえい)の花

※建礼門院

菩提(ぼだい)弔う 徳子の姿 思いを馳せる 瀬戸の海

 

【写真抄および各地の碇知盛製作状況】
(1枚目)一戸町本組平成24年、典型的な碇持ち上げスタイルの秀作。一戸町では西法寺組を除く4組がいずれもこのような定例スタイルの碇知盛の製作経験を持ち、特に野田組で作例が多い。野田組のみ、黒でなく銀色の碇を使う。(2枚目)岩手町川口み組平成18年、正統派の碇知盛で私が見た中では一番の秀作。碇を斜めに構えて高さを調整しつつ躍動感を上手く出しているし、船端に構える足も素晴らしい。実は低い方の手は少し碇から離れていて、それもまた効果的であった。碇知盛は悲しい感じに仕上がれば理想的だと思うが、この山車の知盛は泣き腫らしたような顔に見えて悔しそうである。川口では、井組でも碇知盛の製作歴がある。(3枚目)岩手町沼宮内愛宕組平成24年、月代を剃らないわらわ髪の知盛。碇と船が一般的な作例と逆向きだが、これは戦前の古写真の形を活かし山車奉納100年の記念作としたため。沼宮内ではろ組を除く4組で碇知盛製作歴があり、大町組が正統派・残る3組は全て定型を崩して個性を出している。(4枚目)石鳥谷上和町組平成29年、碇をほぼ直立させた構想で、2年前の沼宮内新町組の作例を写したもの。昭和40年代の一戸の構想は下組が鎧を着せずに映しているが、本作(写真と新町組の作と、当組の再作)では船を傾けて中を見せ、知盛を足を折った座り姿勢とした。沼宮内では碇はほぼ真上に向いたが、石鳥谷では傾けて付けざるを得ず、そのことが勇みと躍動美を生んだ。石鳥谷では西組を除く4組が碇知盛に取り組んでいるが、いずれも定型を崩し、それぞれに見所があった。(5枚目)石鳥谷中組平成26年、血の化粧が単に赤いのでなく、奥まで深みを付けた上手な塗りである。同様の歌舞伎知盛は中組で2度出し、下組でも一度出た。中組は船を付けず、下組は船を付けた。中・下が血の化粧を入れたのに対し、上若連は『大物浦』において顔・着物から血の表現を丸ごと抜いた。(6枚目)二戸まつりポスターより、平三山車長嶺連中平成12年。潰しの使い方・人形の角度など見事という他ない出来栄えである。特にも主役が自決へ向かうその傍らで、平家武者が敵軍に最後の一矢を報いているのが良い。


※南部流風流山車(盛岡山車)行事全事例へ

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