| 年代 | 九戸村伊保内 8/17・19 |
野田村 8/24・26 |
二戸市(6件) 5/3〜9/第3日 |
軽米町 9/第2金日 |
その他 |
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| 昭和46 | ●佐々木高綱か?(南田) | ||||
| 昭和50 | ※山形村で『勧進帳』 | ||||
| 昭和57 | ●自雷也/浦島太郎(上組) | ||||
| 昭和58 | ●釣鐘弁慶/ぶんぶく茶釜(上組) ●義経八艘飛び/清水一角(中組) |
《金田一》 ●川中島/清水一角(上町) ●義経八艘飛び(本町) 《福岡》 ●加藤清正/大岡越前(市役所) ●川中島/ぶんぶく茶釜(下町) ●自雷也/相馬大作(田町) |
※青森県十和田市に『恵比寿大黒』製作 | ||
| 昭和59 | 《福岡》 ●桃太郎/江戸花め組(田町) ●恵比寿大黒(市役所) ●鬼童丸/宮本武蔵(下町) 《堀野》 ●恵比寿(東側) |
※十和田市南町内会『見返し 快力谷風』 | |||
| 昭和60 | 《金田一》 ●巴御前/一寸法師(上町) ●見返し 孫悟空(本町) 《福岡》 ●巴御前(愛宕) ●碇知盛(田町) ●め組の喧嘩(下町) ●山中鹿之助(市役所) |
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| 昭和61 | 《福岡》 ●平将門(田町) |
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| 昭和62 | ●山中鹿之助(上町) | 《福岡》 ●牛若丸/梵天丸と輝宗(市役所) ●義経一の谷/高田の馬場(愛宕) ●見返し 荒木又右衛門(下町) ●双頭竜退治/旅がらす(田町) ●見返し 遠山金四郎(長嶺) 《堀野》 ●つり鐘弁慶/旅がらす(沢木) ●伊達政宗/荒木又右衛門(三区連合) |
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| 昭和63 | ●双頭竜退治(上町) | 《福岡》 ●四ツ車大八/鎮西八郎為朝(愛宕) ●相馬大作/竜神(市役所) ●明智光秀/清水次郎長(下町) ●川中島/牛若丸(田町) ●南祖坊/さるかに合戦(長嶺) |
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| 平成元 | ●今川義元か?(上町) ●八幡太郎義家(下町) |
《福岡》 ●真田幸村(長嶺) ●義経八艘飛び(田町) ●竜虎の戦い(愛宕) 《堀野》 ●四ツ車大八(馬渕区) |
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| 平成二 | ●四ツ車大八(南田) | 《福岡》 ●岩見重太郎/大久保彦左衛門(田町) ●恵比寿鯛釣り/板割の浅太郎(下町) ●九戸政實/相馬大作(愛宕) ●渡辺綱鬼退治/女自雷也(長嶺) ●今川義元/鞍馬山(市役所) 《堀野》 ●見返し 金太郎(三区連合) ●大久保彦左衛門 《石切所》 ●新田義貞/松茸とり(二区中央) ●浦島太郎(川原橋通り) ●天狗と牛若丸(工業高校通り) |
●渡辺綱鬼退治/女自雷也(仲町義組) ●九戸政實/相馬大作(新町大正団) |
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| 平成三 | ●碇知盛/鞍馬の天狗(南田) ●岩見重太郎/那須与一(上町) |
●岩見重太郎/鞍馬の天狗(中組) | 《天神》 ●那須与一/一寸法師 《金田一》 ●義経一の谷(下町) 《福岡》 ●碇知盛/竜神(長嶺) ●児雷也(田町) ●九戸政實(市役所) ●義経一の谷(愛宕) ●恵比寿大黒(下町) 《堀野》 ●義経一の谷/森の石松(三区連合) ●見返し 和藤内(馬渕区) 《石切所》 ●桃太郎/一寸法師(工業高校通り) ●九戸政實/大岡越前(川原橋通り) ●弁慶奮戦/大久保彦左衛門(二区中央) |
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| 平成四 | ●児雷也/養老の滝(南田) ●川中島/大久保彦左衛門(下町) ●桃太郎/藤吉郎初陣(上町) |
児雷也/養老の滝 | 《金田一》 ●山中鹿之助/森の石松 ●楠正行/天狗と牛若丸(下町下平) ●那須与一/金太郎(子供の夢を育てる会) 《天神》 ●天狗と牛若丸/森の石松 《福岡》 ●め組の喧嘩/那須与一(市役所) ●桃太郎/鯛つり(愛宕) ●楠正行/女自雷也(下町) ●川中島/ぶん福茶釜(田町) ●山中鹿之助/養老の滝(長嶺) 《堀野》 ●桃太郎/養老の滝 ●楠正行/ぶん福茶釜(三区連合) 《石切所》 ●山中鹿之助/ぶん福茶釜(二区中央) ●児雷也/養老の滝(川原橋通り) ●楠正行/新門辰五郎(六区) |
※ホッコン祭りで『児雷也/義経一の谷』北海道運行。 | |
| 平成五 | ●巴御前/荒木又右衛門(南田) ●め組の喧嘩/弁慶奮戦(上町) ●恵比須大黒/養老の滝(下町) |
●め組の喧嘩/弁慶奮戦 | 《米沢》 ●楠正行/新門辰五郎 《福岡》 ●さるかに合戦/宇治川先陣(愛宕) ●木村重成/一寸法師(下町) ●本能寺の変/大黒(市役所) ●平将門/荒木又右衛門(長嶺) ●巴御前/弁慶奮戦(田町) 《堀野》 ●さるかに合戦(三区連合) ●平将門/荒木又右衛門(馬場大畑) ●木村重成/弁慶奮戦(馬渕区) 《石切所》 ●大黒/木下藤吉郎 ●佐々木高綱/大江山の鬼(六区) ●さるかに合戦(川原橋通り) |
※ホッコン祭りで『恵比寿大黒/岩見重太郎』北海道を運行。 | |
| 平成六 | ●義経八艘飛び/野狐三次(南田) ●平将門/鞍馬の天狗(下町) |
●義経八艘飛び(中組) | 《金田一》 ●雷電為右衛門/一休さん 《福岡》 ●四ツ車大八/恵比寿鯛釣り(は組) ●大岡越前/つり鐘弁慶(市役所) ●義経八艘飛び/一休さん(愛宕) ●那須与一/浦島太郎(下町) ●真田大助/野狐三次(田町) ●倶利伽羅谷の合戦(長嶺) 《堀野》 ●四ツ車大八/浦島太郎(三区連合) ●真田大助/鞍馬の天狗(馬場大畑) 《石切所》 ●森蘭丸/亀(川原橋通り) ●義経八艘飛び/ぶんぶく茶釜(二区中央) ●つり鐘弁慶/鯛つり(六区) |
●倶利伽羅谷の合戦/野狐三次(新栄団) | |
| 平成七 | ●南祖坊と八之太郎/花咲爺さん(南田) ●源頼光鬼退治/竜神(下町) ●本能寺の変/常磐御前(上町) |
●本能寺の変/常磐御前 | 《米沢》 ●義経八艘飛び/一寸法師 《金田一》 ●源頼朝/宮本武蔵 《福岡》 ●頼光鬼退治/森蘭丸(長嶺) ●福島市松の奮戦/小野川喜三郎(田町) ●山中鹿之助/竜神(下町) ●八幡太郎義家/花咲爺さん(愛宕) ●南祖坊と八之太郎/常磐御前(市役所) ●里見八犬伝/宮本武蔵(は組) |
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| 平成八 | ●少年頼朝/こぶとり爺さん(下町) ●自雷也/桂川力蔵(上町) ●自雷也/子連れ狼(南田) |
●碇知盛/桂川力蔵 | 《米沢》 ●つり鐘弁慶/鯛釣り 《福岡》 ●少年頼朝/牛若丸(市役所) ●碇知盛/宇治川先陣(田町) ●自雷也(下町) ●明智光秀(愛宕) ●川中島(長嶺) 《堀野》 ●桂川力蔵 |
●川中島/天狗と牛若丸(大正団) ●明智光秀/子連れ狼(光栄団) ●碇知盛/佐々木高綱(芙蓉団) ●自雷也/さるかに合戦(新栄団) |
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| 平成九 | ●平将門/平手酒造(南田) ●恵比寿大黒/花咲爺さん(下町) ●真田幸村/養老の滝(上町) |
●平将門/石松代参 | 《米沢》 ●少年頼朝/木下藤吉郎 《福岡》 ●遠山金四郎/養老の滝(長嶺) ●平将門/木村重成(田町) ●恵比寿大黒/花咲か爺さん(下町) ●牛若丸弁慶/石松代参(愛宕) ●真田幸村/平手酒造(市役所) 《石切所》 ●頼光鬼退治/平手酒造(川原橋通り) ●森の石松 |
●遠山金四郎/養老の滝(大正団) ●真田幸村/平手酒造(芙蓉団) ●平将門/木村重成 ●恵比寿大黒/花咲爺さん(光栄団) |
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| 平成十 | ●義経八艘飛び/文福茶釜(南田) ●加藤清正/木枯らし紋次郎(下町) ●四ツ車大八/金さん(上町) |
●加藤清正/金さん | 《米沢》 ●頼光鬼退治/平手酒造 《福岡》 ●加藤清正/ぶん福茶釜(長嶺) ●義経八艘飛び/金さん(田町) ●五条の橋/木枯らし紋次郎(愛宕) |
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| 平成11 | ●南祖坊と八之太郎 | 《福岡》 ●今川義元/桃太郎(長嶺) ●巴御前/鎮西八郎為朝(田町) ●南祖坊と八之太郎/天狗と牛若丸(下町) ●山中鹿之助/雷電為衛門(愛宕) ●楠木正行/天狗と牛若丸(市役所) |
●巴御前(芙蓉団) ●今川義元(義組) |
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| 平成12 | ●碇知盛 ●森蘭丸 |
《福岡》 ●碇知盛(長嶺) ●義経一の谷/九戸政實(田町) ●木村重成(下町) ●森蘭丸(愛宕) ●桃太郎(市役所) |
●碇知盛(芙蓉団) ●義経一の谷(大正団) |
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| 平成13 | ●明智光秀/相馬大作(南田) ●九戸政實/那須与一(下町) ●真田大助/花咲か爺さん(上町) |
《福岡》 ●船弁慶(長嶺) ●九戸の乱(田町) ●自雷也(下町) ●明智光秀(愛宕) ●九戸政實出陣(市役所) 《堀野》 ●九戸政實出陣(三区連合) ●自雷也(馬渕区) |
●船弁慶/那須与一(大正団) ●真田大助/相馬大作(芙蓉団) |
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| 平成14 | ●川中島 ●義経八艘飛び ●羅生門 |
●川中島(中組) ●義経八艘飛び(上組) |
《福岡》 ●羅生門/箱根八里の半次郎(長嶺) ●川中島/番場の忠太郎(田町) ●牛若丸/金太郎(下町) ●山中鹿之助/大久保彦左衛門(愛宕) ●義経八艘飛び/巴御前(市役所) 《堀野》 ●牛若丸(馬渕組) 《石切所》 ●大黒舞/箱根八里の半次郎(川原橋通り) |
●羅生門(新栄団) ●川中島(芙蓉団) |
※普代村に貸し出し(『義経八艘飛び』『山中鹿之助』) |
| 平成15 | ●和藤内(南田) ●少年頼朝 ●平将門 |
●少年頼朝(上組) ●平将門(中組) |
《米沢》 ●羅生門/番場の忠太郎 《福岡》 ●少年頼朝/常盤御前(長嶺) ●和藤内/森蘭丸(田町) ●源頼光鬼退治/瘤取り爺さん(下町) ●め組の喧嘩/子連れ狼拝一刃(愛宕) ●平将門/森の石松(市役所) 《堀野》 ●め組の喧嘩/瘤取り爺さん(三区連合) ●源頼光鬼退治/常盤御前(馬渕組) |
●少年頼朝/森の石松(新栄団) ●平将門/子連れ狼拝一刃(芙蓉団) |
※野田村大使として北海道様似町で山車運行 (『平将門/子連れ狼』) |
| 平成16 | ●楠木正成/国定忠治(南田) ●源義家/鼠小僧(下町) ●大黒/浦島太郎(上町) |
●四ツ車大八/浦島太郎(上組) ●楠木正成/国定忠治(中組) |
《米沢》 ●今川義元/瘤取り爺さん 《福岡》 ●那須与一/鼠小僧(長嶺) ●四ツ車大八/水戸黄門(田町) ●大黒/浦島太郎(下町) ●楠木正成/国定忠治(愛宕) ●八幡太郎義家/弁慶衣川(市役所) 《堀野》 ●那須与一/鼠小僧(三区連合) ●源義家/水戸黄門(馬渕組) 《石切所》 ●八幡太郎義家/国定忠治(川原橋通り) |
●楠木正成(新栄団) ●四ツ車大八(芙蓉団) |
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| 平成17 | ●大阪冬の陣/竜神(南田) ●倶利伽羅谷の戦い/平手酒造(下町) ●森蘭丸/佐々木高綱(上町) |
●恵比須大黒/竜神(上組) ●弁慶立往生/佐々木高綱(中組) |
《米沢》 ●義経一の谷/国定忠治 《福岡》 ●真田幸村/猿かに合戦(長嶺) ●弁慶立往生/平手造酒(田町) ●森蘭丸/佐々木高綱(下町) ●恵比須大黒/竜神(愛宕) ●倶利伽羅谷の戦い/一寸法師(市役所) |
●弁慶立往生(新栄団) ●倶利伽羅谷の戦い(芙蓉団) |
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| 平成18 | ●義経八艘飛び(南田) ●巴御前/桃太郎(下町) |
●木村重成(上組) ●義経八艘飛び(中組) |
《米沢》 ●弁慶立往生/養老の滝 《福岡》 ●巴御前/雷電為右衛門(長嶺) ●義経八艘飛び/天狗と牛若丸(田町) ●今川義元/ぶんぶく茶釜(下町) ●木村重成/荒木又右衛門(愛宕) ●碇知盛/桃太郎(市役所) 《堀野》 ●義経八艘飛び(馬渕組) ●巴御前(三区連合) 《石切所》 ●明智光秀(川原橋通り) |
●巴御前/天狗と牛若丸(新栄団) ●義経八艘飛び/荒木又右衛門(芙蓉団) |
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| 平成19 | ●里見八犬伝/常磐御前(南田) ●川中島/山本勘助(下町) |
●里見八犬伝/常磐御前(上組) ●加藤清正/丸橋忠弥(中組) |
《福岡》 ●加藤清正/丸橋忠弥(長嶺) ●里見八犬伝/常磐御前(田町) ●巌流島/那須与一(下町) ●船弁慶/知盛の怨霊(愛宕) ●川中島/山本勘助(市役所) 《堀野》 ●川中島/山本勘助(馬渕組) ●巌流島/常磐御前(三区連合) 《石切所》 ●巌流島(川原橋通り) |
●加藤清正(芙蓉団) | |
| 平成20 | ●山中鹿之助(南田) ●本能寺の変/遠山の金さん(下町) |
●巴御前(上組) ●源頼光鬼退治(中組) |
《米沢》 ●義経八艘飛び 《福岡》 ●義経一の谷/遠山の金さん(長嶺) ●本能寺の変/恵比須鯛釣り(田町) ●山中鹿之助/鞍馬山(下町) ●大江山/相馬大作(愛宕) ●羅生門/小林平八郎(市役所) 《堀野》 ●大江山/遠山の金さん(馬渕組) ●義経一の谷/相馬大作(三区連合) 《石切所》 ●義経一の谷(川原橋通り) |
●山中鹿之助/恵比須鯛釣り(芙蓉団) | |
| 平成21 | ●少年頼朝(南田) ●め組の喧嘩(下町) |
●岩見重太郎(上組) ●少年頼朝の奮戦(中組) |
《米沢》 ●少年頼朝の奮戦/恵比寿 《福岡》 ●め組の喧嘩/養老の滝(長嶺) ●平将門/花咲爺(田町) ●少年頼朝の奮戦/ねずみ小僧(下町) ●岩見重太郎狒々退治/大黒舞(愛宕) ●児雷也/大岡越前(市役所) 《堀野》 ●岩見重太郎 ●少年頼朝 《石切所》 ●見返し 鼠小僧 |
岩手県二戸郡、九戸郡の山車祭りについては、俗に「平三(ひらさん)の独壇場」といわれている。「風流平三人形」と呼ばれ親しまれている年間延べ二十台に及ぶ風流山車は、現在二戸市金田一に在住のプロの山車職人、平下信一氏の手によるものである。平下家は、もともとは二戸市福岡下町の山車を作っていたが、「糠部地方一の山車作り名人」との評判から、プロとして昇華した。現在で草創期から三代を数え、初代平下三太郎氏の本業であった魚屋の店名「平三」から、平三山車(ヒラサンダシ)と俗称されるにいたった。昔は平三のような山車作りの名手が福岡地区に三、四人いたという。現在は一戸町を除き、全町山車を手作りする例がこの地域にはなく、福岡でも山車組の三分の二が、外注による人形飾りを用いている。外注製作される大半は、この平三山車である。 ●平三山車の「弁慶立ち往生」について
平三人形の特徴はその表情にある。目を剥き出し歯をむき出し、大変凄味のある顔でこちらをにらみつけている。演題の九五パーセントを占める「武者もの」に対応させたもので、荒々しい戦場の雰囲気を感じさせてくれる。平下氏の述懐によれば、県北は武者人形が好まれるため、歌舞伎演題はほとんど影をひそめているという。平三人形は、丈は盛岡の人形より小さいが、その分一台にあがる数が多い。騎馬を含み、三体から四体程度上がるのが普通である。地域によって山車の大きさが異なり、これに対応して人形の数が変わる。以下に概略を示すと、
●比較的小型(一、二体) …薬師・天神(ともに二戸市米沢)、川原橋通り町内会(二戸市石切所)
●中型(三体) …九戸村伊保内、二戸市堀野
●大型(四体程度) …二戸市福岡(俗に言う「二戸まつり」の山車)、軽米町
●超大型(四体程度) …野田村
のようになる。後述するように、規模の変化に巧みに対応できる構成である。人形は皆木目込み人形ではなく、手足と胴体がつながった、前身木彫りの人形である。どの人形にも見事な動きがついており、決まった体勢の人形を衣装や配置を換えて飾り、様々な場面を作っている。人形の体勢そのものを年毎に変える盛岡型の山車と、最も異なる点である。

山車を組み上げることを「山車上げ」といい、一つの山車を、一日で組み付ける。たとえば九戸祭りには三台平三山車が出るので、山車上げは祭礼三日前から始まる。福岡町であれば五日前に始まる。祭礼前日までに、すべての山車が上がるのである。その年に作られる山車は、大体五、六演題と定まっており、つぶし人形や馬を換えながら、おのおのの借入先で使いまわす。年毎の演題は、大体五年周期で動いているというが、頻出するものもあれば、久々に登場するものもある。台車はトラックの廃車や消防車であり、ほとんどの場合小太鼓と大太鼓を山車飾りの前に配している。これは八戸市をはじめ、青森県南部地方の太鼓配置に近似するものであり、福岡町の田町や堀野の馬渕組等、わずかにこれを破り盛岡型の太鼓配置を定める組もある。人形飾りのモチーフは、各種の武者絵や絵本などが参考にされているが、これに合わせて盛岡、八戸両者の山車の写真、盛岡であれば絵番付が参照されている。演題につく「風流」の冠は八戸にはないので、おそらくは盛岡から導入したものであろう。

(中略)
※ここには本編すてきなおまつり「南部山車番付」の文面と似通った内容を掲載いたしましたので、ここでは割愛いたします。紹介したのは、九戸村熊野神社祭礼、二戸市三社大祭、同武内神社祭礼、同栃木神社祭礼、同薬師堂祭礼、軽米町八幡宮祭礼、野田村愛宕神社祭礼です。
この他に、今は山車行事が途絶えた青森県田子町、現在はすべて自作の同県三戸町、また十和田市三本木の祭礼にも平三山車が発注されていたという。岩手では、山形村(昭和50年から8年間)、普代村(平成14年)、大野村で一時期、平三山車が動いたことがあった。また、ホッコン祭り、野田村使節としての様似町運行など、北海道へも遠征している。
※平三山車は「借りる」山車か?
平三山車を説明するときに「借り上げ」という言葉を使うべきか否かについて、ちょっと迷いがある。たとえば盛岡の城西組の山車を日詰で借りたり、八戸の売市の山車を久慈で借りたり…といった場合には、「盛岡から借りた」「○○組から借りた」ときちんと言及できるのであるが、二戸で使われた平三山車の『大楠公』を翌週に軽米で飾った場合、「”二戸から”借りてきた」といえるだろうか?仮にいえるとすれば、二戸は野田から、野田は九戸から山車を借りている、といえるのかどうか。結局平三山車の『大楠公』はどこの山車なのだろう?九戸のものであり、野田のものであり、二戸のものであり、軽米のものでもある。つまるところどこのものでもない、というのが平三山車である。これは南部藩領に広く伝播する「借り上げ山車」の風習の中にあっても特異なことで、平三山車には明確な「名義」がない。名義がないからこそ流通しうるもの、とでもいえようか。
1、平三山車にあって盛岡の山車にないもの

平治の乱に敗れちりぢりになって都から逃れる源氏一門、当時わずか十三歳の源頼朝は吹雪の中に父とはぐれ、奮戦も空しくついに追っ手にとらわれてしまう。この山車はこの吹雪の中の少年頼朝と平家の追っ手との戦いを描き、幼少からの天下人の将器をたたえたものである。
見返しで源氏ものの定番は常盤御前の子別れである。都を逃れ吹雪の中幼子と次々に子別れを強いられてしまう常盤御前, 牛若丸と生き別れになる悲しい場面を再現している。

牛若丸は、後に元服して源義経となり、源平合戦で大活躍した人物である。盛岡の山車で見返しに牛若丸を飾るときはたいてい、五条の橋で弁慶と戦う体の飛び跳ねた格好を作る。平三山車の場合は、京の都の月の夜に、牛若丸が牛にまたがって歩く様子をたびたび作ったことがあった。由来は定かではないが、他の系統では見られない平三独自の牛若の見返しといえる。

以仁王の令旨に対して各地の源氏が決起したとき、最も勢いがあったのは信濃源氏の木曽義仲であった。寡兵にて平家の大軍を下し、意気揚々と都入りをした彼はやがて、時代の反目に合って非業の死を遂げる。平家都落ちを決定付けた義仲第一の武功の戦が、有名な倶利伽羅峠の合戦であった。義仲は野牛の群れをつかまえその角に松明をくくり、闇夜の敵陣に放った。怒涛のごとき野牛の急襲に平家方はなすすべもなく、陣を乱して谷底に落ちたという。この戦法は中国の兵法書に伝わる「火牛の計」を踏まえたものであり、花巻や八戸など人形を多く使う山車ではたびたび作られたものの、平三山車の構図に当てはめるには相当の工夫が必要とされたと思われる。見事にそのハードルを越え完成された山車には、牛に突き上げられた武者、義仲の構図への挿入など、見るべきものが非常に多い。
●山中鹿之助(やまなかしかのすけ)
尼子氏の復興をめざして孤軍奮闘した勇士、山中鹿之助はその名の通り兜に鹿の角を立て、月に七難八苦を与えたまえと祈ったといわれる戦国時代一の講談の英雄。躍り上がる馬上から槍を繰り出す鹿之助、これを受ける武者が太刀をかざす、様式美に本当に感銘された一作。この他馬に乗らずに兵卒と切りあう場面や、馬の左右に潰しの兵卒を飾る手法など、多岐にわたって描かれる演題。
●桶狭間(おけはざま)
今川義元が織田の奇襲によって雷雨の中陣を乱し、足軽の服部小平太・毛利新助の手にかかって討ち死にする場面。表札には『今川義元桶狭間戦い』とあり、中央には雷鳴、左側に長い槍を義元へ向けて突き立てる毛利新助、右側に服部小平太に後ろから掴みかかられた今川義元が怒りの太刀を振るうといった構図。天下取りを辛くも逃した敗軍の将の断末魔を描くのは、一見おめでたいまつりの風情と逆行するようにも思われるが、この桶狭間によって後の天下統一の兆しが華々しく芽吹いた点、すなわち信長秀吉にとって吉兆であると捉えられる一面があり、また今川義元自身の風流性、その生き様のはかなさも、風流山車にこめられた歴史観を色濃く反映するものである。

卑しい農民から成り上がった太閤秀吉には、加藤清正をはじめたくさんの「子飼い」の家来がいた。彼らは、秀吉夫妻が貧しいころに自分の食べる分を削ってまで育てた面々で、成長して豊臣一の忠義者となった。後の福島正則もその一人で、柴田勝家を下した合戦の武功から「七本槍」とたたえられた。秀吉の死後、正則は豊臣政権を擁護しようとする石田三成ら文治派と対立し、関が原の戦いでは東軍に与して、後に徳川家康の臣となった。「市松」は福島正則の幼名で、山車は兜もかぶらない軽装の若武者が槍で敵の軍卒を高く持ち上げている場面である。持ち上げられた兵卒の支え棒は、独特の画法で描かれた波しぶきを使って隠している。平三山車の中でも最も優れた構図のひとつで、他地域には演題、趣向とも見られない大変めずらしい作品である。

機知に優れ、若くして不遇な戦に散った英雄として、講談物語ではアイドル的存在。関が原の戦い以後、急激に弱体化した豊臣政権に対し、徳川家康は数々の謀略を用いてその壊滅を図った。秀吉の子お拾いを産んだ淀君は豊臣家の威信を保つべく江戸幕府に宣戦し、「大阪の陣」が始まる。秀頼の世話係であった木村長門守重成は大阪城に集まった浪人衆、没落大名らとともに城方として戦う。次第に戦況不利となり離反者が相次ぐ中、重成は最後まで豊臣方に尽くし、自分の兜に線香を炊き込めて、死出の出陣をした。平三山車では騎馬武者もの、立ち武者もの、様々なデザインで登場するが、他系統での製作例は皆無に近い。特に二戸市福岡の下町の山車でよく見られる。

大坂夏の陣、名称真田幸村に最後まで付き従った十三歳の若武者、真田大助。豊臣譜代の家臣が次々と落ち行く中に最後まで城下を離れず、城主を失った大阪城の炎を見届けて割腹した真田幸村の息子である。兜の六連銭もきらきらと美しく、白馬に乗って太刀をかざし、敵兵をなぎ払う様を描いた。完成度の高さに加え、アイディアとそれに見合うような見事な頭の存在をたたえたい。

徳川吉宗に仕えた名奉行、テレビドラマにもたびたび作られている人物である。低い身分の出であったが、おなじく日陰者の生活が長かった吉宗にその才能を見出され、享保の行政改革に大いに貢献したという。お白州の場面を描くのも平三山車の得意とする技術の一つで、あまりに大型化した八戸の山車や、場面の広がりを限定する三戸方面の山車では作られなくなってしまった。裃姿の越前が上意をかざし、坊主や老侍が恐れ入る構想のもの、上意を読み上げる姿を見返しに飾ったこともあった。
●南祖坊と八之太郎(なんそぼうとはちのたろう)
十和田湖・田沢湖・八郎潟の北東北三大湖にはそれぞれヌシがいて、八郎潟のヌシは八郎太郎という竜神の化身であった。修験者の南祖坊がこれと一騎打ちを挑むというのがこの伝説で、ねぶたや青森南部地方の山車には比較的良く用いられる演目である。平三人形は一時期十和田方面にまで足を伸ばしていたので、立地的影響も指摘できるだろう。平成11年の作品は、まず龍の造りが素晴らしく迫力があり、彫刻の芸術性を感じたこと、南祖坊のかざす数珠が中に針金を入れて躍り上がるように飾られていた躍動感などが印象的であった。龍の胴の部分を山車の四方にめぐらせる手法は、同じく蛇体を用いる「児雷也」にも見られる。


平三山車ではたびたび昔話が表に上がるが、これに該当するのはおおむね、『桃太郎』と『さるかに合戦』である。さるかに合戦は有名な昔話であるのに、なかなか山車の演題にあがることが少ない。平三山車では蟹の子供をだました猿に、臼、栗、蜂が仕返しをする場面を作るが、猿を除くすべての登場人物が人間の胴体をしているのが特徴である。たとえば蜂は、蓑を着た足軽の首のみが蜂の全身の人形に摩り替わっている。蟹も浴衣を着た子供の首から上が蟹の全身。平三山車以外でさるかに合戦の山車が出たのは、平成15年周辺では久慈の備前組と、北上の黒沢尻第7区である。

平三山車ではつぶし人形と見返し人形の区別が明確でないため、見返しに男人形が上がる例が多い。三度笠の股旅物、やくざもの、剣豪ものの演題で、森の石松、子連れ狼拝一刀、荒木又衛門、高田馬場、番場の忠太郎、箱根八里の半次郎、木枯らし紋次郎、国定忠治、平手酒造、ねずみ小僧、鞍馬天狗などがある。荒木又衛門は鍵屋の辻のあだ討ちの場面で、頭に鉢巻を締めてかんざしを3本挟んでいる。高田馬場の中山安兵衛は一体もので、華やかな色の襷をかけている。
●竜神(りゅうじん)・双頭竜退治(そうとうりゅうたいじ)
上記南祖坊のほかにあまり用いられない立派な竜の人形は、『竜神』としてしばしば見返しに使われている。古々しい神社の傍らからぬっと顔を出した竜神に、提灯を下げた村人が驚いている様子を作ったものだ。ほかに表の演題として『双頭竜退治』が昭和62年に作られたが、以後再作されておらず、由来も判然としない。着物姿で厳しい表情の若者の背面に鳥居、文字通り竜の頭を2つ添える。竜の目玉には電球が入って光る仕掛けにした例もあり、また髭の部分に天然の木の枝を塗装したものを飾り、迫力を出した。
2、平三山車と盛岡の山車との違い(共通演題から)

関八州を支配下において自ら「親王」を名乗った平小次郎将門。内裏はこの一大反乱を一刻も早く鎮圧すべく、かねてより将門と敵対関係にあった平貞盛に加え、宮中一の弓矢の名手藤原秀郷を遣わせる。不意を突かれた急襲に単身朝廷軍に向かってくる束帯姿の将門を、秀郷の弓矢がいざ射止めんとする緊迫した場面の山車で、平三の手掛ける山車のうちでも馬を二体用いたほかに潰しを加えるという最高級、最大増員のものとなっている。とりわけ異様な将門の装束が凄みがあって面白い。盛岡と同じ山車の作法を伝える一戸町では、将門の親王荒馬姿一体を飾った例があり、また若武者の将門の山車もあった。
●源頼光鬼退治
源氏の始祖源頼光は、都を揺るがす魑魅魍魎を次々と退治して名をあげたことで知られ、なかでも有名なのが大江山の酒呑童子を退治した伝説である。平三山車の頼光では、たくさんの鬼を舞台に上げて武者との一対一の対決を描いたり、八犬伝に使う鬼瓦を背景に用いておどろおどろしさを増したり、さまざまな工夫が製作のたび毎凝らされてきた。平成十五年の作品は、頼光と青鬼が互いの獲物を構えて睨み合う二体の山車である。盛岡では長髪の青年が頭上に杯をかざして見得を切る歌舞伎風の作品が作られたが、このほかに盛岡では試されなかったものの、大鬼の首を武者人形に添えて飾るような工夫もされた(石鳥谷、一戸)。秋田の角館でも同様の工夫がされ、また新庄も含め日本海側では長髪の若者の顔のみが大赦隈の酒呑童子が現れる。平三山車には大鬼の首も、長髪の少年も登場しない。

頼光四天王の一人、渡辺綱は京の羅生門にて茨木童子の襲撃に遭い、物怖じすることなく腰の名刀髭切を抜いてその手を切り落とすという場面。鬼女の額の部分の表現がややグロテスクすぎるきらいがあるが、能楽を踏まえた衣装や持ち物の造詣は面白い。武者の出来がバランス、躍動感ともに見事なものであった。桃太郎などに用いる青鬼を使って馬上の綱と退治させる趣向も、往時作られているが、このときには特に『羅生門』と題されなかった。
●鬼童丸
大江山、羅生門の鬼退治、前九年後三年の奥州合戦など、清和源氏が歴史の表舞台に登場し始めた時期の逸話を集めたのが「前太平記」である。鬼童丸もこの書物に登場する盗賊で、童子の姿が特徴である。以前頼光に囚われたときの恨みを晴らすべく、鬼童丸は死んだ牛の皮をかぶって牛の群れにまぎれ、頼光を討とうとする。頼光は即座にこれを見抜いて、死んだ牛の皮越しに鬼童丸を討ったという。昭和51年に盛岡の本組が、実に40年ぶりのこの演題を復活した。その余波、反響がいかばかりのものであったか、遠く二戸の地までこの趣向を模した例があることを見ても明らかである。
●天狗と牛若丸
源氏の血筋として鞍馬山に預けられた源義朝の一子牛若丸は、深山の天狗を相手に武者修行をし、後の源平合戦にてその成果を発揮したという。平三山車では葉団扇をかざした桃色の顔の天狗と、童子の牛若の2体飾りで仕立て、二戸米沢の天神の山車では表に上がったこともあるが、たいていは見返し用の飾りである。天狗のみを見返しに飾り、『鞍馬の天狗』とした例もある。これとは別に時代劇に登場する黒覆面の『鞍馬天狗』も見返しに登場している。
●釣鐘弁慶
ちょうど平家全盛の時代に、天台宗の総本山である延暦寺は、寺門派と呼ばれる園城寺勢力と激しく対立していた。源平合戦で活躍する武蔵坊弁慶は架空の人物という説が有力だが、山門派(延暦寺勢力)の先頭に立って抗争に加わり、園城寺の大釣鐘を独力で引きずり比叡山まで引き上げ、これを打ち落としたという武勇伝が伝わっている。平三山車でも盛岡山車とほぼ同じ構図でこの「引きずり鐘」の場面が描かれ、昭和晩期の野田村や米沢・石切所に表として登場したほか、多くは見返しとして飾られた。飾りを付けようのない一体飾りであるが故のことである。

義経弁慶主従の出会いの逸話、有名な五条の橋での技比べの場面の山車。全国的に製作例の多い演題で、平三山車でもたびたび登場する。3、4体の人形を使う平三山車でも、五条の橋は弁慶、牛若丸の2体のみで、余計な人物は入れない。おのおの決まった人形を使っているので、製作のたびにどのように代わり映えをさせていくか、腕の見所である。他地域では弁慶が両手でなぎなたを振るっている例がほとんどだが、平三山車では片手で長刀を扱う。背景には橋はもちろん、五重の塔や満月などを立体的に作って配色を豊かにする。
●巴御前
粟津に最後の奮戦を試みる巴御前の山車は、盛岡では馬町が自慢のものとして20から30年に1回製作している。平家を都から追い出した勇将木曽義仲に常に従っていたという、美しく強い女武者であった。表札には『巴御前馬上の奮戦』とあり、中央に白馬に乗って薙刀をかざす巴、両側に太刀を片手に巴を討ち取ろうと迫る兵士を配置している。平成五年ごろに、巴が兵卒を片手で持ち上げつつ馬を繰るというデザインのものも登場したが、これは戦前に岩手の南沿岸、陸前高田のまつりに登場した山車の構図に酷似するもので、彼女の痛快なまでの剛勇振りを感じさせてくれる。高さが要求されるため、盛岡では難しい構図だろう。頭に巻いた鉢巻の上に、巴紋の入った丸い前立てをつけるのが特徴、一体で見返しにも飾られた。

六甲山の難所一の谷の背面から油断していた平家を奇襲し、見事勝利を収めた義経功名第一の合戦である。盛岡では通常馬の前足は跳ね上げて作るところを、この鵯越の山車に限って逆にする(「下り馬」)。平三山車の一の谷は、切り立つ崖を駆け下りようと馬を繰る源義経、弁慶、馬の口取りの三体でしたてたものである。現在見られるものは特に下り馬というわけではないが、往古は白馬を前傾姿勢にして駆け下るさまを再現したりもした。馬2頭立てで作る例もあった。


壇ノ浦の戦いで敵方の猛将能登守の追跡を逃れるため、源義経が重い鎧を着たまま、8艘の船を身軽に飛び回ったとの伝説による。義経は比較的低い位置に据えられ、逆に追う側の船を高い位置に配するのが平三八艘飛びの特色、大体3年に1回は登場するという人気の演題である。能登守に関しては特にこれを、という限定的な描かれ方ではないように思うが、場面の半分から上はひしめく平家の船団で、きらびやかな鎧をまとった武者たちが飾られる。小型の山車に、飛ぶ義経のみを飾る例もあった。用途によって船は大小使い分けられている。
●碇知盛
平家一族の滅亡を悟り、「見るべきほどのものは見た」と潔く壇ノ浦の荒波に身を投じた平家の若大将、新中納言平知盛の姿。自身のなきがらをさらすのを恥じ、船の碇を担いで入水したといわれる。諸手に碇をささげる一体飾りの豪壮さを、平三山車ではさらに拡張し、華々しい船戦の傍らに碇知盛を据える。大船に主役の知盛、武者三体を乗せる豪華版で、知盛の演出法は製作のたびごとに斬新さを感じさせる。近年は知盛一人だけ顔を青く塗って血潮を垂らす技法が用いられるようになった。

壇ノ浦に沈んだ平家一族の怨霊は、兄に厭われ落ちぶれ果てた源義経の退路を襲う。副題は『知盛の怨霊』で、真っ青な顔に血を垂らした中納言知盛が船を沈めようと義経に襲い掛かり、弁慶は鎧姿に数珠を天にかざして祈り、ついに悪霊を調伏する。船のつくりを始め、非常に豪華なつくりであり、知盛になんといっても青い人形を作る発想が素晴らしい。この青い人形は他に『錨知盛』や『平将門』に用いられている。盛岡では城西組が、歌舞伎の勧進帳で出てくる山伏姿の弁慶を船に乗せ、この演題に取り組んだ。秋田の角館や山形の新庄では弁慶は地味な僧の服装で、怨霊の知盛のほうがはるかに存在感を見せる。いずれ、鎧姿の弁慶で船弁慶を作る例は、平三人形以外では探しがたい。

平成17年、大河ドラマ「義経」に対応して出てきた唯一の義経もの平三山車。兄頼朝に追われて奥州平泉に逃げ込んだ義経主従が、慈父であった藤原秀衡の死後に継嗣泰衡に攻められ、高館にて非業の最期を遂げる。義経第一の家臣武蔵坊弁慶は、主の最期を敵に犯されまいと高館の前に仁王立ちになり、何本矢を射掛けられようとも決して倒れず、立ったまま息絶えたという。弓を射る武者と不動の形相で仁王立ちの弁慶に、潰し人形を1体加えたもの。背景の館が御殿のように豪快・豪華に作られていた。
※誠に恐縮ながら、私が描いた草案を山車にしていただきました。二戸の田町町内会さんから依頼されて構想しましたが、野田村・二戸市米沢でも活躍してくれたようです。大変うれしく思っております。
●楠正成
親子2代で後醍醐天皇に仕え、最後の最後まで忠節を尽くした武将として知られる。水戸光圀が江戸時代にまとめた『大日本史』にて絶賛され、水戸学を背景に近代国史教育に多大な影響をあたえた。平三山車では平成16年に正成の湊川での奮戦を描いたが、盛岡では必ず付される口髭は付けられなかった。兜はしっかりと3本角になっている。この年の奉納前には相当昔に一度作られたきりの珍しい演題といい、青森県南部まで視野を広げても正成の山車を探すのは容易でない。
●新田義貞
新田義貞も太平記ものの代表演題で、稲村ヶ崎に宝剣を投げ入れて海神を静める逸話は盛岡、八戸、秋田から福岡の山笠まで幅広く作られている。平三山車の新田義貞は、昭和55年に盛岡のと組が出した、二刀流で馬を守る藤島合戦の場面を再現したもので、製作者の取材欲の貪欲さを物語る一品であろう。
南部流風流山車ではおなじみの楠木正成の孝子を描いた演題。四条畷の大軍に立ち向かい、父の形見の兜を盾に矢の波を行く正行の勇ましい姿を、背面に続く二人の武者とともに描いた力作であった。前のめりに兜を突き出し、刀を振り下ろして矢を切っている。刀が上に向かないこと、戦烏帽子をかぶらないことなどが盛岡での四条畷との違いで、若武者よりか荒武者のイメージが強い。盛岡では村上義光、新田義貞、児島高徳と、いわゆる「太平記もの」が比較的豊富なレパートリーで作られているが、二戸以北では急激に製作例が減り、平三山車でも太平記といえば、主にはこの正行の山車のみといえる。

戦国時代の有名な合戦で、大将同士の一騎打ちに及んだことから昔から「画になる戦」とされ、役者絵や郷土人形などさまざまに形とされてきた。謙信、信玄に馬を加えた二体が常で、これに信玄方の足軽人形一体が加わることもある。足軽は謙信の乗る騎馬の尻を叩いて、主君の危機を救う役どころである。信玄の人形は定型のものがあるが、謙信はさまざまな体勢の人形をすり替えながら仕立てる。製作者、依頼者ともに大変満足のいく豪華な作品に仕上がることが多い。

木下藤吉郎は豊臣秀吉が信長に仕え始めたころに名乗っていた名である。盛岡では騎馬武者を討ち取る場面を描いたが、平三山車では見返しに、足軽装束の若者一体を飾って木下藤吉郎とした。使われた人形はいくつかあり、中には髭を生やした人形もある。いずれも表でつぶし人形に使われるタイプの軽装の人形である。

天下人織田信長は、比叡山、将軍家とこれまで誰もが畏れてを出さずにいた勢力をつぶしにかかり、ついにその矛先は天皇家に向こうとしていた。信長家中でも筆頭の切れ者といわれた明智光秀は主君の革命的姿勢に強い危惧を抱き、ついに主君をいさめるべく挙兵する。有名な「本能寺の変」は、全国統一を目前に控えた信長がわずか100名の護衛のもと15000の明智勢に攻め立てられ、無念にも倒れるという政治史的大事件である。盛岡では、信長に仕えた若武者森蘭丸が欄干の上から明智方の武将を槍でつき伏せる場面がたびたび山車になる。平三山車ではさらにこの趣向を拡張し、弓を引く浴衣姿の信長とセットで蘭丸を描く。人形は、攻め方含めて三体が普通だ。石切所では、これを引き縮めて盛岡周辺のような配置に飾った。

破壊者織田信長によって乱されてしまった天下を再び本来あるべき秩序に戻そうと本能寺にて主君を討った明智光秀は、謀反人の汚名を着たまま誰からも相手にされず、高松から取って返した羽柴秀吉と山崎天王山であいまみえ、武運拙く破れて故郷に帰る矢先に落ち武者目当ての百姓の手にかかって絶命する。因果応報の理を語る飾りで右側に光秀、左側に大きく張り出した岩、その奥から農夫の竹槍が突き出す。多少全体として散漫な感じが合ったが、それもこの場面の惨さに比して雰囲気の裁量と捉えるべきであろう。二戸市内で盛岡風の飾り方をする五日町、川又でも取り組まれているが、こちらは光秀を馬に乗せる。
●九戸政実
豊臣秀吉の奥羽制圧に最後の最後まで屈服することなく、巧みな戦術によって寡兵にて大軍を次々に破り、ついには豊臣方に詐術を弄されてあえなく戦死した二戸・九戸地方最後にして最高の英雄である。この演題を飾るためのこだわりが二戸・九戸地方の山車のすべてであり、真骨頂といっていい。九戸では主役の人形を中央に配して左右に潰しを置くことが多い。平成13年(九戸城落城500周年の年)の作品でも、政実が騎馬に乗って左右の攻め手を切り伏せる勇ましい姿が描かれていた。平三人形唯一の地元武将の山車である。
●岩見重太郎
剣豪重太郎の有名な狒々退治。人身御供の娘の代わりに女の着物をかぶって桐の棺桶に入り、狒々と見るや即座に白刃をひらめかせ、一刀のもとに討ったという。この演題専用に社を跳梁する躍動的な猿の人形があり、桃太郎などに使われる猿とは別のものである。重太郎は棺おけから飛び出て、神社の注連縄を切った格好をつくる。重太郎は着物に襷、鉢巻をかけて刀を抜いている。小道具として紙で作った手水鉢が使われるほか、狒々に驚いた村人を添えて3体仕立てに飾った例もあった。盛岡では戦前に、戦後は一戸町で狒々退治の山車が作られている。

見返しには郷土の英雄相馬大作が津軽の大名行列に向けて大筒を放つ一瞬が飾られる例も多い。相馬大作はその実名を下斗米秀之進といい、南部藩主利敬に仕えて藩の隆盛に尽くした。時に南部藩から津軽領を横取りし、以来長年の対立関係にあった津軽藩主が幕府に多額の贈賄を重ね官位を得、ついに南部藩の風上に立った。この屈辱を胸に息を引き取った利敬の思いを告ぐべく、大作は西洋軍楽の砲術を応用し、矢立峠にて参勤交代の津軽藩大名行列に向け発砲する。南部忠臣として盛岡にもしばしば登場したが、特に戦後は大作の片腕となって活躍した関良助を添え、2体飾りとする例が増えた。平三山車では近代風の衣装も時代考証を感じさせる見事さで、見返しに多いが、馬に乗った殿様を襲う体で表に上がったこともある。
●桂川力蔵
親の敵討ちをする力士の物語で、成田山の力石を頭上に差し上げ本願成就を祈る場面が盛岡ではたびたび作られている。平三山車の場合は石ではなく松を抜いて頭上にかざしている。おなじみの力士人形のレパートリーとして作られた。小野川喜三郎もそうだが、力士人形をさまざまな力士に見立てようと作られた作品のひとつであろう。盛岡で必ずトレードマークとして付けられる鉢巻は、平三山車の力蔵にも見られる。見返し用に作られたものだが、堀野では表に上がった。
●め組の喧嘩(四ツ車大八)
平三独特の風合いを最もよく感じられる裸相撲人形の代表的演題。有名な四つ車大八の鳶との大喧嘩で、大八が肩脱ぎで梯子を振り上げ、鳶が両側に二人、武器を構えている。盛岡、八戸に共通する演題であり、平下氏の得意演題のひとつという。かざすのが梯子であれば『め組の喧嘩』、車であれば『四つ車大八』と題をつける。後者の場合、侍と戦う構図であることが多い。日本海側や旧伊達藩領ではまったくといっていいほど見られない演題で、広い意味での「南部流」を特色付ける演題といえる。

遠山の金さんのお白州の場面で、弁天小僧と捕り方がつく。桜吹雪が描かれたのは、近年では平成九年で、以前は単に裃を着た奉行人形であった。奉行ものではほかに『大岡越前』がある。裃姿ではなく、浴衣を着せて『金さん』として見返しに使われたこともある。これは遊び人に身をやつし、庶民のピンチを救いに来た、お決まりの場面を描いたものだろう。この見返しの趣向は、他の地域には一切見られない。

黒姫山に住む盗賊、自来也が師の危機に駆けつけ、襲い掛かる大蛇を蝦蟇の妖術で防いで見事打ち倒す場面をつくる。大蛇が渦巻く中を巻物片手に大きく前に出る自来也の躍動が印象的で、沢山化け物を登場させる豪華な山車である。表の2体の人形のうちもう一体は、自来也の妻でナメクジを使う綱手姫であるとも、大蛇丸の妻の毒蛇使いともいわれ、見返しに『女自来也』の形で登場することもあった。東北地方に限らず、人形山車では非常によく作られる定番の一つで、平三山車で特徴的なのは、印を組む手の形が登場しないことである。自雷也を演じる人形はたいてい巻物を手前に突き出し、駆け出すような格好で作られる。里見八犬伝の現八と同じ人形を使うので、後述した帯を巻く体勢をそのまま自雷也に用いたこともあった。このときは巻物を口にくわえている。石切所では盛岡のように蝦蟇に乗った自雷也のみを飾った作品もあったようだ。



盛岡では最後に出たのが平成元年という七福神の山車である。平三山車の地域では、武者が好まれるとはいうものの、恵比寿大黒の飾りもしばしば所望されるという。いずれもあつらえの人形を使い、大黒、恵比寿が単体で表に上がることもあれば、宝船に大黒恵比寿を並べて飾ることもあるようだ。装飾は2匹の鯛と、ピアノ線で吊り下げた大判小判と、武者よりもはるかに豊かな色彩での山車作りがされる。横に上げた写真が、平三山車の恵比寿大黒を最大限のかざりかたで作った例で、通常はこれほど多くの要素を一気に出しに乗せることはない。

盛岡周辺で表にしか用いられない演題を、平三山車では見返しとすることもある。宇治川先陣、巴御前、鎮西八郎為朝、真田大助、釣鐘弁慶、森蘭丸など。このうち平三山車に特徴的なのは、盛岡ではほとんど浴衣姿のものしか見られない為朝の山車を、保元の乱で弓を射る武者姿で飾った例である。
※平三人形と盛岡周辺の山車人形との大きな違いは、木目込み式であるか否か、です。盛岡の場合は人形飾りを解体したとき頭(かしら)、手足がバラバラになる、胴体や腕、足などは木の心棒にわらを巻いて太くしたものです。これに対し平三人形は全身が木彫りで解体しても体制が変わることがなく、ゆえに毎年ほぼ同じ体勢の人形がさまざまに化粧をされて数々の演題を演じていくわけです。この決まった体勢の人形の中にはいくつか特徴的な作品があり、それらの整理を面白おかしくやってみようというのがこの段です。(大学に提出したものには、ここに掲載したものの他にもいろいろありました。)
◎力士の人形は、諸手を上げたユニークな表情のもので、四ツ車大八、雷電為右衛門、小野川喜三郎、桂川力蔵などの用例がある。肩肌脱ぎ、もろ肌脱ぎにされることも多い。
◎童子の人形は二種類で、大振りなものと小ぶりなものがある。大振りなものは、子連れ狼の大五郎、金太郎、ぶんぶく茶釜に小僧として、また竜神やねずみ小僧で、主役を見て驚いている人形となる。笑顔でばんざいをしたような格好に作られている。小ぶりな方は、鯛を釣る童子、常盤御前子別れや鞍馬山に用いる牛若丸、一寸法師であれば茶碗舟、鬼退治、浦島太郎にもまれに用いられた。
◎青年(若武者)の人形、片手を上に上げているので、刀などを持たせる。五条の橋の牛若、真田大助、牛乗り牛若、源頼朝などに仕立てられる。
◎義経用の顔の優しい人形は、一の谷や八艘飛びで用いられるほか、ひげを付して八幡太郎義家、見返しには浦島太郎、養老の滝として用いられる。
◎花咲か爺さんに用いられる翁(お爺さん)の人形は、木に腰掛けるのではなく地上に立って灰を撒いている。この人形にこぶをつけて、腰に小さな鉞をさせば、樵の瘤取り爺さんとなる。丁髷をつけて裃を着せ、桶に片足を入れれば大久保彦左衛門、このように扮装を変えることで水戸黄門も製作される。
◎平三人形の女人形は1体のみで、なんとも厳しい表情をしている。もっとも調和しているよう例としては、児雷也に添えられる女忍術使いであろうか。平三山車の女人形は常盤御前、扇の的など限られており、鎧を着て巴御前として表にあがることもある。
(二戸、九戸地方の山車運行中の掛け声)
秋葉だ良いさ(よーいさよいさ)声出して良いさ(よーいさよいさ)仲良く良いさ(よーいさよいさ)…
(二戸、九戸地方の音頭上げ)
そらあえ、一にゃ紀の途のやあえ(やっとこせ、よいわな) こりゃ、一にゃ紀の途の大日様よ、よーいとな(ありゃりゃりゃ、ありゃりゃん、どっこい、よーいとこよいとこな)そらあえ、二には二戸のやあえ(やっとこせ、よいわな) 二には二戸の秋葉様よ、よーいとな(ありゃりゃりゃ、ありゃりゃん、どっこい、よーいとこよいとこな) そらあえ、このやお店はやあえ(やっとこせ、よいわな) このやお店はめでたいお店 、鶴と亀とが舞い遊ぶ、よーいとな(ありゃりゃりゃ、ありゃりゃん、どっこい、よーいとこよいとこな) そらあえ、商売繁盛(よーいさよいさ)
※平三人形の上がる地方においては盛岡のようなの音頭は見られず、「よーいとこ、よーいとこら」に続く一種の民謡調のものを歌うところがほとんどである。九戸村では動いている最中に、軽米町では山車を止めて「さあさ、音頭挙げます、よーいとなあ…」に続けて歌う。二戸では、交通事情により山車を止めてゆっくりあげる形式が取れないので、運行中山車を進めながらあげる。山車とは別個に、花回りで各戸を巡ってあげられる例もある。山車を小屋から引き出すときにも歌われる。歌の内容は、主に豊作を喜ぶ喚起の詩なようで、地元の自然の美しさを詠むものや、「宮誉め」といって伊勢神宮参詣の行者たちが唱えた、古今東西名社を歌った数え歌のようなものがある。演題解説のような音頭はほとんど歌われない。「よーいさ、よいさ」「やっとこせえ」などは一説には地引網を引く掛け唄ともいわれ、日本海から北海道を経由してこの地に持ち込まれた、ないしは北海道へ近世晩期にこの地方の人々が持ち込んだものともされており、木遣りとは別口の音頭といえる。佐渡島の鬼太鼓に、これと非常によく似たフレーズの歌いかけがある。今回は、二戸市福岡町田町町内会の音頭を部分掲載した。
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