盛岡山車の演題【風流 碁盤忠信】

碁盤忠信

 



「1体の定型」紫波町日詰上組平成9年

 盛岡山車の歌舞伎演題の中には、『暫』や『鏡獅子』のように歌舞伎自体がよく知られているものもあるが、一般にあまり知られず上演機会もほぼ無い、いわば「忘れられた演目」を作ったものもある。『碁盤忠信(ごばん ただのぶ)』はその代表例であるが、これは盛岡広域で作られる歌舞伎演題の「定番中の定番」といえるものである。

 佐藤忠信(さとう ただのぶ)は、奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)が源義経に下賜した勇猛な武将で、兄継信(つぐのぶ)とともに義経を助けた。義経が追われる身となると忠信は鎧兜一式を義経から拝領し、身代わりとなって鎌倉の追っ手を引き受け壮絶に戦死したという。その舞台は京都の堀川とも奈良の吉野山ともいい、この話を荒事芝居に仕立てたのが歌舞伎「碁盤忠信(堀川夜討ち)」で、夜襲をかけられた忠信が枕元の碁石の散らばる音で目を覚まし、重い碁盤を片手にとって討手を追い返す筋書きである。

 山車の忠信は前髪の無いざんばら髪に車鬢(くるまびん)が付き、顔に華やかな火焔筋隈(かえん すじぐま)が入る。大きな車紋の刺繍を入れた黒いどてらを諸肌脱ぎにし、やはり車柄の入った赤の着物を見せ、この上から仁王襷を掛ける。『矢の根五郎』や車引きの梅王・『鳥居前』などと同じ「赤の歌舞伎もの」である(注:昭和57年生まれの私の見解。碁盤忠信の着物が赤のみになったのは昭和50年代の末・たぶん昭和59年盛岡八幡町い組の作以降で、それ以前は紺・紫・水色などかなり自由な設定だったらしい。以降に赤以外の忠信がほぼ出ていないのが、。逆に不思議である)。衣装の下に少し鎧が見えるが、これは義経を身代わるためのものであるから、大いに豪華に作る。

「定型」盛岡市八幡町い組平成18年

 碁盤を片手で軽々と差し上げ、攻め手を睨む忠信の山車である。碁盤は普通枡目(ますめ)の入った表側をみせ、横でなく上に掲げる。赤主体の人形の上に大きな黄色い碁盤がまぶしい。碁盤の高さを効果的に見せようとすると松の上に端が出てしまい山車の高さ制限に引っかかるため、碁盤の裏に軸を付けて着脱式にし、電線や高架橋の下をくぐるときは碁盤を外してしまう工夫が度々試みられてきた。「そのような工夫は本来の作法ではない」と考える山車組は、松の上に碁盤を出さないように人形を小さく組んだり、手前に出したり横に出したり、腰から下を異常に低い姿勢に組む等様々に工夫している。なお戦前の作例に、枡目と側面が半々くらいに見えるよう碁盤を向けたものがあるが、写真からはこの方が勇みが出るようにも思える。
 碁盤をかざす手の形も見所で、「盛岡山車の師匠組」ともいわれる八幡町い組の碁盤忠信は手の形を碁盤の四つ角にぴったり合わせて作る。これが本来の、誤魔化しの無い表現らしい(伝聞)。忠信をよく出す同市内「の組」でも手の形を非常に工夫した碁盤忠信を出したことがあるが、作例の多くは碁盤を持つ手が握りの形で、これで碁盤の足をつかむように組むと不自然でなくなる。碁盤を手のひらを隠すように設置してしまえば、そもそもこうした悩みは無くなり、開いた手にぴったり碁盤を貼り付けてしまうのも一案である。あえて碁盤と手のひらの間に距離を設けて投げたように見せた作例(沼宮内愛宕組H13・盛岡市い組H18等)・碁盤を行灯にし手に差し込んでしまった作例(一戸町橋中組H10等)もある。
 上がらないもう一方の手は刀のつばに親指をかけ、ぐいと手前に引き出している。これもまた、単に握りにしないのが粋であるらしい。

「一本隈」石鳥谷上和町組平成23年

 背景は室内をあらわす衝立(ついたて)とする通例があるが、平成に入ってからは作例の約半数で省かれるようになった。盛岡の城西組は、逆に欄干まで付けて背景を御殿に作り、豪華に演出している。脚は通例では刀を引き出す側が伸びるが、この作では碁盤を持った側を伸ばし>のような形に構図を開いた。着物や刀・及び御殿の壁は歌舞伎「義経千本桜」の意匠を活かしたもので、隈取も二本でなく一本・鳥居前の忠信と同じであった。昭和40年代まではむしろこのような一本隈の忠信が多かったが(盛岡市は組・盛岡市い組S42等)、平成以降はあまり再作されず、本作と同じ態勢を模した沼宮内・土沢の作も隈取は二本としている。
 石鳥谷の中組は衣装・隈取は定例的な表現としたが、掲げた碁盤に抜き身の刀を丸ごと付けて、剣戟を防いだ体に飾った。下げた方の手は腰の刀を半分抜き、反撃に出る「次の展開」を見る者に意識させた。

 もともと碁盤忠信の山車は、攻め手を踏みつけ碁盤を投げつける2人形の趣向が多かった。踏まれている人形を、盛岡地方では俗に「潰し(つぶし)人形」と呼ぶ。潰しを伴う趣向は通常「2体もの」とは捉えず、「一方が主役でこちらは脇」という明瞭な比重で捉える(たとえば碁盤忠信の場合、潰し人形は上半身しか作らない)。主役の人形の勇壮さを引き立たせて物語性をはっきりさせるのが潰し人形であり、潰しの無い碁盤忠信は単に歌舞伎の見得に見えるが、潰しが付けば追っ手を追い払う物語性が濃くなる。碁盤が手から離れるのも忠信が足元を睨むのも、潰し人形がいるからである。潰しを踏みつつ碁盤を差し上げる忠信もあるにはあったが、潰しが無くて碁盤が手から離れている忠信はほとんど出てこない。碁盤が落ちている場合、普通は忠信の目線を碁盤に落として潰しとの三点連動を行うが、一戸で出た碁盤忠信にこの定例を崩し、碁盤と反対を向かせたものがあった(野田組H2)。写真を見る限りだが、これはこれで何ともいえないいいリズムがある。

「非歌舞伎」紫波町日詰一番組平成29年

 潰しの兵は歌舞伎の化粧でもなく衣装も普通の鎧姿で、歌舞伎衣装の忠信との間に独特の対比が生まれる。肌色に隈を取り髪の車鬢を省いて洗い髪とした作品が昭和晩期に見られたが、この時の番付は白塗り・車鬢ありで描かれてあるので、これは現場で作り手の凝らした工夫の一つであったと私は考えている(そしてそれは、非常によく成功している)。
 なお、錦絵などでは忠信の基本衣装は白い着物で、隈取も無い。このような歌舞伎仕立てでない裸人形風の碁盤忠信の山車も出るには出たようで、石灯籠を背にして寝巻き姿で追っ手を蹴散らしている(頭を押さえつけている)構図が戦前盛岡山車の絵図に残る。戦後にも「隈取の無い忠信」「白い寝間着の忠信」などいくつか非歌舞伎的な碁盤忠信が出たようだが、本格的な復活(もしくは創作)は平成29年の紫波町日詰 一番組の作といえる。題も敢えて『佐藤四郎忠信』と付け、寝込みを襲われた説得力を出すため、碁盤を持たない方の手で討手の槍を掴む形とした。沼宮内のの組は碁盤を両手で持ち上げる格好にし、床を斜めにして足元に碁石の散らばる様子を表現した。豪傑というよりは優男風の人形にしたのも面白い。

「平成型」紫波町日詰橋本組平成25年

 ところで平成23年12月、歌舞伎の「碁盤忠信」が100年ぶりに上演された。この時、恐悦ながら当サイトにも松竹株式会社より資料提供の依頼があり、盛岡という一地方で碁盤忠信という歌舞伎山車が『暫』や『矢の根』と同じように頻繁に作られ、一見「実際にそのような歌舞伎が演じられているかの如く」リアルな定型を形作っていたことに改めて気づかされた。このことは、実は本物の歌舞伎関係者の興味を引くほどに貴重なことだったのである。

「平成型」盛岡さ組平成26年見返し

 「平成の碁盤忠信」の前半の姿は盛岡山車とかなり違い、力紙を伴い隈取は一本で、着物は黒と紫を重ねる。後半では盛岡山車に出るような二本隈取・赤衣装(ただし柄は花菱)となり、討手を踏み付けた形で競り上がってくるらしい。碁盤の足を持って高く掲げ、もう片方の手は刀の柄を握って三分ほど引き上げる。この場面は野外で満開の桜が背景となるらしく、「御殿に見立てて背景を全部桜にした」という盛岡さ組の4作目が、奇しくも大当たりとなった。平成26年には、最後の忠信が碁石を投げて悪魔払いをする場面を見返しに作っている。
 表には、日詰の橋本組が採り上げている。着物の柄を従来の車紋でなく花菱にし、どてらの地を黒から白に、碁盤の側面には螺鈿(らでん:黒地に光沢の模様)が入った。この作はこれら意匠の変化とともに、投げた後をかたどって碁盤を足元に配した点が画期的である。この作以降の盛岡山車は、もっぱら従来通りの車紋・黒どてら・側面無地の碁盤で『碁盤忠信』を採っている。


「静御前」盛岡よ組昭和61年『勧進帳』見返し

 対応する見返しは、『静御前(しずかごぜん)』である。静御前は義経の愛妾(正式な妻ではないが、最も愛された女性)で、吉野山で義経と別れた後に鎌倉方に捕まってしまう。京で一番の白拍子(しらびょうし:男装で踊る遊女)との評判から、静は頼朝の御前で舞を見せることになった。静は頼朝を睨み付けると、「義経のことが忘れられない」「また義経の世が戻ってくればいいのに」などと、物怖じもせず義経を恋慕う歌を歌い、優雅に舞ってみせた。頼朝は怒って静を切り捨てようとするが、北条政子が傍らでこれをとどめて事なきを得た。静の舞姿、吉野山で義経を追って旅をする姿などが見返しに上がっている。
 盛岡のさ組は、『源九郎狐』が忠信に化けて伏見稲荷で静を救う場面を、碁盤忠信の見返しとした。

石鳥谷西組平成22年

 碁盤忠信は古くは古浄瑠璃に登場する逸話で、戦前は無声映画に作られてもいる。一方で歌舞伎演目としては、前述のように長らく廃曲に近い状況にあった。山車の演題として盛岡広域のみならず、以前は青森方面(ねぶたや八戸の山車)にも取材が見られたのはまさにこの時期であり、その要因を考えることは山車文化の価値を探るうえで大きな意味を持つように思う。
 山車行事は一年に一度のハレの機会であり、ケの日常ではすでに忘れられてしまったものでもハレの限られた期間には持続されていることが多い。現在でこそ祭りは古式に立ち返って行われるが、このことで祭りの期間にのみ何十年も前の習俗が伝承を続ける、という例も少なくないのではないか。歌舞伎山車としての『碁盤忠信』の伝承は、まさにこの観点から理解されることではないだろうか。
 地元平泉出身の英雄として、また碁盤を振り上げるという構図のわかりやすさからも、北東北の山車演題の首座に碁盤忠信が上がってきたのではないかと思われる。


【写真抄】
(1枚目)日詰上組、借り上げ時代の平成9年、背景は無いが典型的な1体の碁盤忠信である。人形は平成元年盛岡さ組初出のいわゆる「駒木人形」で、平成2年には同組で盛岡の組み付けそのままで出し、以降志和や川口・石鳥谷で使われ、平成5年には同組の『和藤内』を構成した。当該作例はこれを再度上組で組み直し、従前より体勢を低くして相対的な碁盤の位置を高くしたものである。製作時に川口の山車絵紙が参照されていたのを記憶している。(2枚目)盛岡い組平成18年、5年に1度登場する盛岡山車碁盤忠信の典型。これも見事だが、話者のお気に入りは@平成8年A昭和59年B平成3年の3作。(3枚目)石鳥谷上和町組平成23年、隈取が1本の忠信。書いた通り隈取は盛岡城西組の踏襲だが、足元を板にしているのは沼宮内新町組H20の踏襲。(4枚目)日詰一番組平成29年、平成では唯一の「はっきり歌舞伎でないように作った碁盤忠信」である。人形の塗りを古風・端正に改め、前夜には地元紙にも掲載され「自作移行以来一番の出来」と内外から称賛された。(5枚目)日詰橋本組平成25年、「平成の碁盤忠信」に完全準拠で作った山車である。舞台写真に準拠し○を作るような手つきをしていたため、組み上げ最終盤に至るまで「これは何の題材なんだろう?」と大いに考えさせられた。(6枚目)盛岡さ組平成26年、『源九郎義経(ぎつね)』の見返し。5と同じく「平成の碁盤忠信」の作例で、碁石を豆に・敵兵を鬼に見立てて「豆撒き」をする幕切れの部分を写している。ただし着物は通例通りで、舞台の反映は無い。(7枚目)盛岡よ組昭和61年『勧進帳』の見返しを飾った白拍子の静御前で、欄干や背景の松は日舞「島の千歳」に共通する。この人形は平成以降ほぼ手古舞にしか使われていないので、本作や平成2年の『胡蝶』は画期的に映る。(8枚目)石鳥谷西組平成22年、手作り山車組ならではの味わいが効果的に作用した1作。極端に体をかがめ足が脇に派手に出ているのが面白く、また赤の布地選びが奏功している。(9枚目)花巻市東和町土沢、盛岡山車・花巻山車の境界域に位置する地域での作例。題は独特だが、解説を読むと「の」が無くてもよい感じ、つまりは定例的な同題の説明であった。背景無し・岩山に滝を流す人形勝負の一作で、碁盤の位置が高く体勢に勇みと広がりがあり顔も端正、上出来の一台であった。



文責・写真 : 山屋 賢一

(ページ内公開)

沼宮内新町組【橙の着物・紺どてら・肌色】  盛岡の組B  一戸西法寺組 【潰し付】  盛岡さ組C   盛岡い組
石鳥谷中組  沼宮内ろ組B 【潰し付】   沼宮内ろ組C・土沢鏑町【御殿】   盛岡い組  沼宮内の組【非歌舞伎】


本項掲載:日詰上組H9【借上期】・盛岡い組H18・石鳥谷上和町組H23・日詰橋本組H25・盛岡さ組H26(見返し)・『静御前』盛岡よ組S61・石鳥谷西組H22・東和町土沢駅上組

山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
忠信のみ 石鳥谷中組
沼宮内大町組
盛岡い組@ABCD(H8〜)
日詰上組(本項)
一戸橋中組
沼宮内愛宕組
盛岡さ組@A(H16〜)
盛岡の組@A(H16〜)
沼宮内新町組
石鳥谷西組(本項)
石鳥谷上和町組(本項)
滝沢山車まつり@A
沼宮内ろ組

土沢鏑町
土沢駅上組(本項)
日詰一番組
盛岡い組S59・H3
盛岡さ組H元・H6
盛岡の組H10

盛岡新若
盛岡い組@(富沢)
盛岡い組A(富沢:色刷)
盛岡さ組@AB
盛岡の組@A
一戸橋中組
沼宮内新町組(手拭)
石鳥谷上和町組(ポスター)
滝沢山車まつり

盛岡新若
2体 盛岡観光協会・日詰一番組
沼宮内ろ組@A
岩鋳の山車
石鳥谷中組
一戸西法寺組
盛岡観光協会

盛岡新馬町
盛岡は組
盛岡い組@A
一戸橋中組
一戸野田組
盛岡観光協会(香代子:色刷)
一戸西法寺組
一戸橋中組(富沢)

盛岡い組@(国広)
新馬町・盛岡い組A・沼宮内ろ組(国広)
石鳥谷中組
沼宮内ろ組(パンフ)
平成新型 盛岡城西組
日詰橋本組(本項)
石鳥谷中組
盛岡城西組(圭)
石鳥谷中組(手拭)

日詰橋本組(チラシ)
非歌舞伎 日詰一番組(本項)
沼宮内の組

盛岡め組
沼宮内ろ組
日詰一番組
沼宮内の組

盛岡め組
ご希望の方は sutekinaomaturi@outlook.comへ

(音頭)

碁盤構えて 北条方(ほうじょうがた)の 寄せ手蹴散らす 歌舞伎見得
四角四面
(しかく しめん)の 碁盤で追手(おいて) くじきし武勇 とこしなえ
夜半
(よわ)の太刀風 碁盤に受けて 残る武勇は 神の恩
(きみ)が行き先 さえぎる敵を 切りて押さえて 功(こう)立つる
迫る魔刃
(まじん)を 碁盤で返し しばし晴れ間の 吉野山
荒事歌舞伎の 義経ざくら 忠義忠信 義士の花
碁盤片手に 寄せ来る敵を 討ちて誉れを 後の世に
碁盤片手に 寄せ来る敵に 忠臣忠信 見得を切る
碁盤構えて 寄せ手を散らし 忠臣忠信 見得さやか
碁盤擲
(なげう)ち 追っ手を払う ひとり・盾(たて)無し 義を尽くす
碁盤振り上げ 討ち手を寄せぬ 丈夫雄鹿
(ますらお じか)の 勇ましさ
自力更生と 岩手の里の 碁盤忠信 腕の先
奥州落ちの 義経助け 身代わり享
(う)けて 吉野山
吉野の櫻に 束稲
(ふるさと)かさね 荒事見せるか 花矢倉(はなやぐら)
主を救うと 衣
(きぬ)いただきて 身代わり忠信 武勇伝
碁盤忠信 荒事
(あらごと)活かす 仁王襷(におう だすき)に 火焔隈(かえんぐま)
碁盤忠信 主君に代わり 追って蹴散らす 奮戦記
義経
(ぬし)の身代わり 敵追い払い 奥州下向(げこう)に 命がけ
あるじ道行
(みちゆ)き 安(やす)きとあれや 奮う忠信 孤忠也(こちゅう なり)
碁盤忠信 奮戦智勇 追っ手を攘
(はら)いし 吉野山
春の吉野に 萬朶
(ばんだ)の桜 忠信ゆかりの 歌舞伎見得
萬朶の桜と 競いて此処に 忠信誉れの 花が咲く
碁盤構えて 傾
(かぶ)きし姿 見事なけだしよ 荒事師
今朝の心切 今宵
(こよい)の不実 まわる小車(おぐるま) 風次第
不覚忠信 堀川
(ほりかわ)夜討ち 思いは遠く 義経に
分かつ運命
(さだめ)を 碁盤に受けて 拓(ひら)く主(あるじ)の みちのく路
義経
(きみ)が御佩刀(みはかせ) 着長(きせなが)(う)けて 吉野に咲かす 義士の花


※南部流風流山車(盛岡山車)行事全事例へ

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送