厄年連と、岩手の春の山車

 

日高火防祭『遙拝式』(水沢)

●日高火防祭(旧水沢市 4月29日)

●江刺甚句祭り(旧江刺市 5月4日)

●羽田町火防祭(旧水沢市羽田町 3月最終日曜)

●前沢町春祭り(旧前沢町 4月第3日曜)

 

 

 

 地域によって祭りの形はさまざまあるが、私は「二度と出会えないもの」を含む祭りが好きだ。風流山車にこれほど夢中になるのも、そんなところに理由があるのかと思っている。風流山車は更新制であり、どんなに見栄えがしても、どんな渾身の作であっても、祭りが終われば二度と見られない。このあたりが「芸術作品」と違う。本当に良いものを見たときは、それが有限であるのが辛くてならず、永久に保存してもらえる芸術作品を逆恨みしたこともあった(笑)。反面、すでに形が無くイマジネーションの中だけにある「名作」は、現存するどんな名作よりも美しく自分の中に残っているから、やっぱり祭りの美は有限であってほしいとも思うのだ。

 今回だけ見られるもの。来年また同じ祭りに来ても、再び目に出来ないもの。更新制でない囃子屋台の祭りにそういう要素が抱き合わせられていることに、私は久しく気がつかなかった。そればかりか全く迂闊なことに、
「こんなものはこの祭りには不似合いだから、どこかへ追い出してしまえばよい。」などと放言していた。浅はかであった。永らえるものと移り変わるもの、双方の魅力をまさしく絶妙に「共生」させた祭り。そんな「究極」の祭りこそが、水沢の日高火防祭なのである。

 かつて胆沢・江刺の頭文字を取って「タンコウ」と呼ばれていた地域のことである。
今は奥州市となった。この地域では、大きな祭りを春にやるところが多い。皮切りは水沢市街から北上川をはさんで東側に広がる鋳物の町、羽田の荒神様の祭り。続いて、かつては熊野神社の祭礼としてにぎわった前沢の春まつり。水沢市街を舞台にゴールデンウィーク初頭、岩手を代表する春祭りとして堂々開催される日高火防祭。最後を飾るのは、流し踊り形式・町内屋台などさまざまな要素を織り込み、参加型のイベントとなった江刺甚句祭りである。これらタンコウの春祭りはどこも非常に集客力があり、大勢の見物客でごった返している。

 集客力のほかに、これらの祭りには大変重要な共通項がある。それは「厄年連」といわれる人々の活躍だ。
 厄年連とは、当該地域で生まれ育った25歳・42歳など特定の年齢の人が全て集まり、祭典に「にわか」と呼ばれるさまざまな催しで協賛する風習の単位を云う。江刺では特に「年祝い連」と呼ぶが、他の地域ではもっぱら厄年連と呼ばれ、前厄や後厄に当たる41歳、43歳などは「次年度厄年連」を名乗る(これも江刺に限って「年代連」と呼ぶ)。特定の年齢の人、要するに同級生が集まるということだ。というと、成人式とか同窓会のようなものと思われるかもしれない。が、厄年連の催しのために帰郷し集まってくる同級生たちというのは、それらとは少し違う雰囲気をはらんでいるような気がする。25とか42という年齢が一つのポイントとなるのではないか、と私は思った。また、近年の厄年連の催しの内容も重要なポイントなのでは、と思った。

屋台出発前の『羽田木遣り』(羽田)

 羽田や江刺では、出店を出したり演歌ショーを呼んだりと、厄年連の活動は多彩である。
 羽田(はだ)では特に、主役となるのは他地域であまりスポットの当たらない33歳の厄年で、催しも伝統的な「囃子屋台の運行」となっている。運行のための数々の厳粛な儀式について前任連や師匠衆から指導を受け、見事に例年通り成し上げることが一種の通過儀礼となっている。とくに木遣り音頭については、本家水沢では全く影が薄いのに、羽田町火防祭では大変目立つように演出されている。42歳厄年連は羽田ふるさと音頭の流し踊りを取り仕切る。これは一般には夏祭りで踊られるような街路放送の流し踊りであるが、羽田の場合は生演奏で町内から歌い手を募り、代わる代わる歌ってもらい伴奏とする。
 このほかの趣向はどちらかといえば自ら催すのではなく、厄年連で費用を出して外から何かを呼び寄せる形が多いようだ。私が見に行った時には演歌ショーが呼ばれていて、「裕子と弥生」の里帰り公演が華々しく行われた。手元の資料からは、近隣から郷土芸能を呼ぶ例もあったと伺われ、盛岡から牛若弁慶の人形山車を借りてきたこともあった(現行の鋳物屋台が作られる前の措置カ)。最後に55歳の年祝い連が餅まきをして、祭りが終わる。さまざまな催しに観客が出すご祝儀については、きちんと受付を設けて待ち構え、防火祈願のお札などを合わせて配り互いに厄払いを願っていた。
 江刺では、次年度の年祝いにあたる年代連が観光案内所やレストランを運営し、主役となる当該年度の年代連はこれらに一切携わらずに町内を回って踊りを披露する。このようなスタイルはどこか学園祭の模擬店のような感じでもあり、当地独特の雰囲気で面白い。

三日町による『前沢阿波踊り』(前沢)

 さて厄年連の催しといえば、なんといっても「創作舞踊」が主体である。水沢駅前通りには、鎧兜からよさこい衣装まで何でも作るおまつり屋さんがある。この店のたたずまいから当地の祭りの組成を隈なく見て取ることができる。すなわちYOSAKOIスタイルのものが主流であり、派手なガラの長い半纏、かろうじて「和」であるが限りなく前衛的な衣装、伝統や古趣とはまったく別の境地に至った出で立ちが町内に乱立し、バックバンドもやかましく踊り回る。前沢春祭りは告知ポスターまでもが42歳厄年連のPRポスターで、かつては風流人形の担ぎ山が見られたらしいこの地域の山車は、今はドラムやエレキギターにアンプ、スピーカーを乗せ、スポットライトをいくつもつけたデコトラに摩り替わってしまった。「ござえんちゃ節」という流し踊りらしき催しも一時期工夫されたらしいが根付かず、かといって郷土芸能の類はさらに根付かず、厄年連の活躍と町内数団体のYOSAKOIチーム・一輪車サークルやフラメンコサークルで祭りの全てを担っている。三日町組が町内会単位で流行歌などを仮装して踊る姿は、軽いものなら日詰まつりや葛巻まつり、もっと本格的なものを探せば六戸まつりはじめ青森県南の秋祭り仮装行列に通じる。参加型でなく、あくまで楽しませようとする側と楽しむ側に2極化している。
 前沢の町並みは所々に旧家をとどめ、瓦屋根の目立つ古趣ゆたかな商店街である。だが祭りの要素は全て、平成以降に工夫されたものであろう。祭日の日中いっぱい、絶え間なく目抜き通りを踊り組みが行き交い演じて回る雰囲気が良い。このような催行形態を他地域の、もっと伝統的な要素をたくさん含んだお祭りに転用できないものかと考えていると、岩手県内の特に県南部の非更新制山車行事について、ひとつの共通項が見えてきた。
 というのは、山車と引き子だけでは成立しない山車行事であること、踊り子が欠かせないという点である。江刺甚句の屋台だけでなく、たとえば気仙地方の式年大祭に登場する山車もほとんどが民謡踊りとセットであり、太鼓をたくさん積んだ山車のみで運行する姿はほぼ見ない。遠野の南部ばやしの山車もそうである。厄年連やYOSAKOIの場合、山車がすっかり装飾トラックであるために伝統とかそれまでの流れとか、そういったものと完全に断絶してしまっているように一見思えるが、山車の周囲のあり方や山車の位置付けについて見れば、気仙や遠野の伝統的な山車と全く同じなのである。逆に、だからこそタンコウにおいて、YOSAKOI地方車風の山車が爆発的に根付いたとも考えられる。特に前沢では伝統を感じさせる姿の山車が全く廃絶し、装飾トラックを「山車」と呼んでいるが、「山車」で踊り子を挟んで終日踊り回るという姿はきっと、今も昔も変わらないのではないだろうか。なお、後述する水沢の「打囃子」および「囃子屋台」は、この共通項が外れる珍しい例である。
 沿道を埋め尽くすほどたくさんの観客が集まっている。こういった雰囲気の中で5時間、6時間とお祭りを楽しんでいたからだろうか、それとも当該年度の42歳厄年連の歌う「人生一度の祭りを祝え、咲いて咲いて花になれ」というフレーズに酔っ払ってしまったからか、前沢の春祭りを引き上げるころにはすっかり「今年の日高は厄年連を見る」という気になってしまっていた。

 特に水沢では、厄年連が協賛した店舗などにその年の団体名(必ず干支の一字を借りる)と上演曲名を記したポスターを配るので、4月ともなれば、繁華街には趣向を凝らした2種のポスターが隙間なく並ぶ。もともと県下に広く宣伝される日高火防祭であるが、囃子屋台のポスターのみを見慣れた市外からの見物人にとって、いざ水沢に入って初めて目にするこの厄年連のポスターは、いやがうえにも祭り心を浮き立たせる。
 日高火防祭を初めて見に行ったのは大学1年の時で、秋でない季節に初めて見に行った山車祭りであった。火消し祭りであるし、県の無形文化財になるほど由緒のあるお祭りである。どんなものかと期待して駅通りを足早に進み、出会ったのが厄年踊りであった。民謡をロック調にアレンジする面白さにほんのちょっとだけ魅かれはしたが、「なんで古趣豊かと謳っているお祭りにこんなものが!?」と違和感で一杯になった。軽い詐欺に遭った気分であった。どうして優雅なお囃子を聞く前にロックなんだ、どうして昔通りに着飾った少女たちを見る前にショッキングピンクの浴衣なんだ、こういうものを共催している時点で日高火防祭に伝統も格式もあったものではない。…とにかくがっかりして帰った記憶がある。そうしてそれからは、万年休みの4月29日に、しかも本線筋のかなり見に行きやすい場所で開催されるにもかかわらず、日高火防祭だけは見に行くまいと心に決めていた。いや、よしんば見に行くにしても、厄年連だけは一瞥もくれてやるまいと日程を厳密に決め、短時間の見物に抑えていた。

25歳厄年連「風戌伝」の山車(水沢)

 が、25歳連が自分と同級生に当たる方々だ、ということもあり、平成18年はむしろ屋台は見なくても厄年連は見る、という意気込みで水沢に出掛けた。前沢で見た「花になれの踊り」やYOSAKOIソーランの激しさが、水沢の厄年連へと無条件に自分を引き寄せたのだ。
 お祭り広場で前沢・江刺の創作演舞披露があるというから、まずはそれを目当てに見物日程を立てた。前沢42歳連の聞き覚えのある高音のサビ、江刺は創作演舞に加え「伝統的な」甚句踊りも抱き合わせて披露し、地域によって同じ厄年踊りにも温度差のあることを感じた。このように、前沢・水沢・江刺の厄年連は提携を結んで、互いの祭りの前夜祭やステージイベントなどに賛助出演する。だからどうしても厄年踊りを2度3度見たいなら、近隣で開かれる後日の春祭りを訪ねればよい。ただし、どうしても当地で見る迫力やテンションに劣ることは否めない。そういったところが、やはり2度と出会えないお祭りの美しさを感じさせてくれる。
 厄年連はトラック2台を引き連れてお祭りの日終日、水沢の町を巡る。場所を変えながら、何度も何度も踊りを披露する。このへんが単純なステージイベントには無い、祭りならではの魅力であると私は思う。街路街路で繰り返し踊り歩くことによって、踊りは少しずつ踊り手の体に染み付いていき、そこから楽しさや勢いが生まれ始める。町中で披露して歩くことによって、踊り手も歌い手も弾き手もたたき手も、厄年連全体のテンションがどんどんと上がっていく。録音したものをスピーカーで流して踊るのではなく生演奏で唄って踊るというスタイルもまた、厄年連全体をさらに高揚させていく。演奏者と周辺の人々との融合に伴う熱狂は、たとえばコンサートなどに足を運べば感じられるものかもしれない。だが厄年連の場合は、演奏に熱狂する観衆に当たる人たちも含めて演者になっているのだから、やっぱりこういう雰囲気は厄年連でなければ見せてくれない。きっと、そうだ。
 厄年踊りの派手な格好はもちろん非日常的なものであるが、メンバーおのおのによって「非日常の度合い」に著しく差が出ている。似合っている人と、全然似合っていないけどすごくはじけている人、代表的な2者とその中間の十数段階がみな、一つの厄年連として全体で高揚している。例えばこういった「差」が出来上がるのが25という年齢ではないかと思った。生き方に差が出来始める年代、中学単位で集められる厄年連だが、中学時代の皆同じような顔ぶれを一変させ、一人一人別々の道を歩き、一つの生き方をつかもうという気概に溢れた表情をして祭りに集う。42歳であってもやはりそういう人生の節目、それこそ一人一人別々の柱を立ててきた人たちが一堂に会し、非日常的な感性に価値観を合わせ、高揚しながら一つに燃え上がっていく。「望んでこの輪に加わっている人だけではない」というのを根拠もなく嘘だと思ったし、「課せられた通過儀礼ではない」と根拠もなく思った。厄年連はたった一度の祭り、逃せば一生後悔する祭り、そこには他地域にはまったく無い祭り観がある。それぞれの「生き方」をつくりあげる頃の同級生たちが非日常の仰々しさを共感し、人生でたった一度の祭りを迎える。タンコウの春祭りが例外なく莫大に観客を集めるのは、こういった厄年連の気概があるからではないか、と思うようになった。
 そうして厄年連の輝きを感じられるようになってはじめて、日高火防祭は自分にとってかけがえのない祭りとなった。

 水沢の厄年連にとって、駅前通で夕方に行う最後の演舞披露がクライマックスである。夕映えのする広い道路一面に同じ姿が何百と揃い、人間離れのした若々しい演舞に身を燃やし尽くすさまは圧巻であり、日高火防祭の一つの真骨頂といっていい。駅前演舞を終えると、実行委員の方が思わず泣いてしまうのをよく目にする。観光客の私にとって、その思いを完全に共有するのは難しい。しかし少しでも近づきたいので、午後いっぱいはびったりくっついて踊りを見るようにしている。そうすると、駅前に到着するあたりでちょうどよく愛着が出来る。駅前のみを見てもある程度は楽しめるだろうが、若干でも付いて回ったほうが厄年連の熱さの「変化」に敏感になれる。そういう楽しみ方もまた、日高火防祭ならではのことだ。

 厄年連の踊りが夕方に終わるというのも、日高火防祭の大変気の利いたところである。すなわち、現代的な厄年踊りと古趣をたたえた囃子屋台の住み分けがきっぱり貫かれている。振り返ってみると、かつて私が短時間でスポットを定めれば完全に厄年連を視野の外に置くことが出来たのは、屋台と厄年連とが非常に巧妙に時間設定され、まったく交差していないからである。わざわざスポットライトまで用意したパレードカーを使っているにもかかわらず、厄年連は来たるべき屋台の相打ちに向けてきちんと駅前通を譲り渡し、夜をクライマックスに踊り続けたりなど絶対にしない。屋台がもっぱら連動することも厄年連との交差を避けるのに良く作用しており、屋台の運行中ただの一度も厄年連の姿・音響に邪魔されることはない。逆も然りで、厄年連の演舞中に屋台が差し掛かり、盛り上がりに水をさすようなことは全くない。反響を及ぼさない四角い町の作りも手伝って、まるで紙芝居のように日高火防祭の2つの顔がくっきりと移り変わっていくのである。複数の要素を持った祭りの非常に大規模なケースとして日高火防祭を捉えるならば、この厳格な「住み分けスタイル」は他地域でも大いに学んでいけるような気がする。

 屋台行事そのものも大変美しく、日高火防祭の現代的な裏の顔を忘れさせるほど格調高い。良い意味で時代に媚びていない厳格さがある。更新制のない屋根付きの山車はそのまま全国区の大勢に通じるような印象があるが、北東北では囃し方の露出が大きな特色であり、ゆえに囃子方が乗り込まなければ山車は未完成の観がある。囃し方が見世物であるから、化粧をし晴れ着を着せて晴れ舞台を踏ませる。特に岩手県中南部で見られる稚児姿の囃し方は、上記の感覚を如実に反映した当地ならではのものといえるだろう。これは更新制の山車行事についてもいえることである。
 午前中は日高小路に屋台を並べて遙拝式、これは屋台のお払い式で、お払いを終えた屋台がゆっくりと、次々に出発していく様子は山車祭りならではの華やかさである。水沢の囃子屋台が美しいのは、まずは小太鼓の少女たちの着飾り方がきっちりしている点、そして背面を飾る和紙の花々のあでやかさである。遙拝式では、横並びになった屋台の背面に咲き誇る枝垂桜や五色の牡丹をじっくりと楽しむことが出来る。

囃子屋台行列(水沢)

 初めて見に行った年は、昼の行列に連なる町印に感動した。火水のしるしに火防の一字を奉った丁印は町火消しの心意気で、消防団の纏振りが先立ったこともあり、火消し祭りの本来の姿を見た気がした。9町の屋台のうち町印がつくのは6町で、これが昔からの祭り組みである。町印のほかに打囃子(うちばやし)という小さな屋台が出るが、これは囃子屋台の少女の小太鼓に対して少年の大太鼓1基を主体とするもので、昔の火伏せ祭りの姿を今に伝えるものという。打囃子・町印の連動は近隣の山車行事には一切見られず、水沢独自の習俗である。速いテンポから遅いテンポに移行する打囃子の笛の曲調は西洋音楽のソナタ形式に近いといい、昔はトットコメイというこの曲の雅なことが火防祭の呼び物であったらしい。打囃子についても、後に続く囃子屋台についても、市で発行しているガイドブック(700円:絵葉書やハンカチなどの記念品に混じって露店でも売られている)に詳しく整理されている。非常にいい本なので、お土産に購入することを切にお勧めしたい。この本に抜けている事項として、柳町の「剣ばやしくずし」の話がある。羽田や金ケ崎、前沢などに学ばれかつて定着していた柳町の囃子は、本当に分析する気で聴けばたしかに岩手県南宮城県北の「献ばやし」と同じだが、原形を殆どとどめず優雅に編曲されている。

 囃子屋台は上部が左右に回転し、祝儀の上がった先にはなむけを行ったり、観客にサービスしたり出来るように作られている。回転の仕方もゆっくりで、ここでも決して優雅さ・厳格さを譲らない。ささやかな美しさをきちんと美しさとして捉え続けている水沢の人たちは素敵だ。

夜の屋台(水沢)

 屋台行列は、駅通りのみを残して旧丁内をくまなく巡る。そうして厄年連が思い思いの最高の演技で完全燃焼した後、電飾をともしてゆっくりと通りに進んでくる。夜の屋台は真正面から眺めるのがよい。夜の帳の中で、照らし出された屋台の中だけがまるで異世界である。言葉にならず、ただ美しい。真正面から屋台を見るのにお勧めなのは、屋台が駅前通に出る際の交差点である。この交差点に面したレストランからは窓一面に屋台の姿を眺めることが出来、また一興である。祭りのクライマックス「相打ち」は、その年の行列の先頭をつとめた屋台が後に続く屋台1台1台と向かい合い、互いに囃す儀礼。屋台が唯一他の屋台を「客」として扱う場面であり、互いに自町の音曲の聴き所を披露し合うさまが、いつしか「仁義」と呼ばれるようになった。最後は三本締めを行い、無事に祭りが終盤に差し掛かったと祝う(「手締め」)。相打ちを終えた屋台が1台1台ゆっくりと駅通りを流れ、祭典本部付近で3台くらいずつ横並びになり「揃い打ち」を披露する。駅通りを練る屋台がまた華やかで、駅前で観客の頭越しに見たものを、今度はじっくり間近で見ることが出来る。
※近年は駅前で「揃い打ち」・駅通りで「相打ち」と、使われ方が逆になった。

 日高火防祭は1日だけのお祭りだが、まるで3日も続けて見たような充実感がある。ここまで書いてきたような祭りの二面性の巧みさゆえであり、全体に一つの「物語」がある。駅前から無料ガイドがつくなど、観客受け入れ態勢もばっちりだ。祭りのためにしっかりと地域が連携している証拠だろう。厄年連の存在という、古趣とは別の火防祭の顔を知って見に行くことで、岩手の春祭りの代表格と誰もが納得できる、大変立派なお祭りである。

 江刺の場合は、もちろん路上巡演もあるが、大通り公園でのステージイベントが祭りの主力となっている。年祝連の演舞は披露する場が点在しており、移動時間が長いので移動している間もオリジナル曲や江刺甚句を演奏し、また先頭に宣伝車が付いて市民に見物を案内する。花車は後続車のほうが派手で、他に比べると「屋台」と呼んでいいような和の雰囲気である。中央に雛壇を作り、小太鼓・大太鼓・三味線・笛を並べる。25歳連は師匠を迎えて江刺甚句を習い覚え、民謡部門は当日も師匠衆が歌う。男女1組で演じる「組甚句」を生演奏にて披露、「オリジナル曲」と呼んでいる創作演舞はヴォーカルのみ生唄、残りは既成音源を使っていた。42歳連は、曲調にもよるが基本的にすべての楽曲を生演奏でこなしているようで、江刺甚句や馬喰ばやし(数年ごとに上演される曲目)の伝授は前年の年祝連から受けるという。いずれ江刺の場合は年祝連が必ず伝統的な江刺甚句踊りをマスターして祭りに臨むのが特色であり、祭りを通して各年代に江刺甚句踊りが伝承され、その成果が市民上げての大パレードとなる。他地域の厄年連や歴代の年祝連の演舞披露の場となる大通り公園は、ステージが上下2段構成になっていて、路上演舞のみを行う前沢・水沢の厄年連の演舞は一味違った角度で楽しむことができる。いずれも地元祭りを経てきての賛助出演なので、ボルテージも高い。

42歳年祝連「彩結会」山車(江刺)

 江刺甚句祭りは、その名が示すとおり「江刺甚句流し踊りパレード」がメインのイベントであり、この時は町内屋台もパレードカーとなって2時間あまり街路放送に合わせて太鼓を叩く。町内屋台の意匠は大まかには水沢に近いが、ビニール造花などを足しているところが多く囃し方のほとんどが半纏姿でもあり、格式としてはやや劣る。花輪ばやし(秋田県鹿角市)や花巻ばやし(岩手県花巻市)など、もともとその地域に無かった楽曲を取り入れている町もある。花巻ばやしを使う六日町銭町の屋台の背面には、花巻の山車に使われる波の絵が飾ってあった。
 水沢のような「住み分け」は無く、むしろ多種の要素が不規則に折り重なることによって賑やかさを演出している。結果として中途半端な印象なのだが、観客を重く見るか参加者を重く見るか、江刺ならではの価値観のあらわれのようにも思える。


 いずれの春祭りも、厄年連を主役として人生一度の祭りを担わせることで、大変な盛況を得て現在に至っている。かつて祭りが担っていたさまざまな役割の多くは、今では多様化した娯楽各種によって代行されるようになった。そういう時勢の中で、来年・再来年・さらにその先、厄年連はどのような祭りを考え、我々の目の前に表してくれるのだろうか。そのプロセス一つ一つに、「生きている」祭りの姿が在ると信じたい。
 「生きる」ことで、祭りは他地域とは全く異なる進化を遂げた。形の無い、イマジネーションに生まれイマジネーションへと帰っていく祭りは、やはり現存するどんな芸術よりも尊いのだとしみじみ思えた。



【資料1】 厄年連趣向の記録
団体名 衣 装 道 具
前沢平成18年42歳 桜駿白蛇会 太鼓の撥
前沢平成18年49歳 戌亥翔成会
前沢平成18年25歳 戌獅青風会 鳴子
水沢平成18年25歳 風戌伝 深緑
袖に枝垂桜の模様
なし
水沢平成18年42歳 己巳会(つちのとみかい) 白⇒花柄
※早変わり
男:木刀、女:鈴木⇒両方旗
江刺平成18年25歳 りおうじん なし
江刺平成18年42歳 彩結会 扇(黒・赤)
前沢平成19年42歳 天馬飛翔会 赤⇒黒⇒黄緑
※早変わり2回
金扇
前沢平成19年25歳 亥風輝(いぶき) 紫、裾がギザギザ 鳴子
水沢平成19年25歳 亥舞陣(いまじん) 黒、黄 なし
水沢平成19年42歳 飛馬会(ひゅうまかい) 男:青、女:橙 イカイカ(鳥毛のついた棒)
江刺平成19年25歳 蒼龍会 なし
江刺平成19年42歳 成陽会 男:水色、女:桃色 手ぬぐい
前沢平成20年42歳 桜未申友会 白と空色 手旗
前沢平成20年25歳 子彩(ねいろ) 黒に赤・金で縁を取った忍者風 鳴子
水沢平成20年25歳 子勇伝(しゆうでん) 白地の半纏 なし
水沢平成20年42歳 翔未会(しょうみかい) 黒・金→紫 なし
江刺平成20年25歳 心舞蓮(しんぶれん) 白と緑の半纏、背中に蓮の模様 なし
江刺平成20年42歳 讃祥会 臙脂→紫(花嵐桜組2007風) なし
水沢平成21年25歳 丑桜乱(ちゅうおうらん) 赤の長半纏、裏地が黒に花吹雪 なし
水沢平成21年42歳 勇申会(ゆうしんかい) マラカス

特に印象に残っている厄年連
○桜駿白蛇会
○風戌伝
○己巳会
○亥舞陣
○飛馬会
○子彩
○丑桜乱



【資料2】 厄年連動向の記録・比較
厄年連メインステージ 前年厄年連 他地厄年連 オプション 祭典後の厄年連出演機会
前沢春祭り 本部前演舞
(本祭午後)
前夜祭
※7年前の42歳連が当日出場
前夜祭 区内YOSAKOIチーム 前沢牛祭り
よさこいIN前沢
日高火防祭 駅前通演舞
(本祭夕方)
前夜祭(夕方) 本祭 14:30〜15:15ごろ 囃子屋台 水沢あきんど祭り
干支和まつり
江刺甚句祭り ラストステージ披露
(本祭り 19:00すぎ)
本祭り午後
※前年度の25・42歳連と7年前の42歳連
本祭り午後 甚句踊りパレード 郷土芸能祭に出演




※東北の囃子屋台まつり一覧

 


(後日談)
 厄年連に触発されて、平成18年は岩手県内のよさこいイベントをでき得る限りまわることにしました。主に水沢25歳厄年連「風戌伝」さんの演舞を見るために足を運んだので、この一年でよさこいに大いに楽しませてもらったとすれば、風戌伝さんのおかげということになります。この場で厚く御礼申し上げます。

@YOSAKOIさんさ祭り公式サイト 厄年連活躍の軌跡
 岩手県盛岡市の大通り商店街を主会場に開催。毎年5月の最終日曜日、正午から午後5時ころまで。
 盛岡市内にはほとんどYOSAKOIチームが無いため、県内外から出場者を集めて開催される。県内では胆江と気仙からが多かった。また県外では宮城からが多い。出場チームは、はじめ盛岡駅滝の広場で演舞し、その後大通りの4会場を巡りながら演舞を披露する。当日は土砂降りの雨であったが、みなずぶぬれになって元気よく踊っていた。
 印象に残ったのは、陸前高田市から出場した少人数のチームであった。このチームはホワイトベリーの「夏祭り」を曲に使い、衣装もコスプレ風で第一印象は決してよくなかったが、踊り始めるとものすごいスピードでメリハリのある動きを見せてくれ、大変楽しかった。
 最後は地元チームや老舗チームが音頭取りをして、総踊り「よっちょれ」「YOSAKOIみちのく乱舞」「南中ソーラン」「パワー」などを踊った。踊り手みんなが大変うれしそうで、活気のある総踊りであった。第一曲目に「よさこいさんさ」と思われる曲が流れたが、こちらはあまり「さんさ」の趣を感じず、もうすこし演舞形態(たとえば太鼓を使うなど)を取り入れてみても面白いのかなと思った。
 全体に見て大変よくできた、楽しめるイベントであった。特に、気に入ったチームの踊りを会場を回って何度も楽しめるのは、単純なステージ公演には無い魅力であった。盛岡市の郷土芸能祭やさんさ踊り競演会にもこのような美点が取り入れられてほしい。

 (平成19年)何十年という月日を淘汰されずに歌い継がれている民謡というのは、やはり相応の魅力を持っているのだと感じた。YOSAKOIについて「こうあるべき」という形が無いのは承知の上で、民謡ベースで創り込んだYOSAKOIに魅力を感じる(札幌のビデオを見てもそう感じた)。
 今回は、十和田・上北・弘前…と青森からの出場団体が大変上手に民謡の旋律を使っているのに気づき、現代風のバック演奏を伴ってこそ映える部分がどの曲にもあった。また、住田町からの出場団体が太鼓鹿踊りの太鼓をYOSAKOIにセッションしていて、太鼓鹿のリズムに今までで一番魅力を感じた。YOSAKOIがこのような「掘り起こし」をいろんなジャンルで試してくれることを願う。



AYOSAKOIソーラン祭りDVDと長谷川岳さんの本購入
 よさこいを基礎から知るべく公式ページから購入申し込みをした。DVDにはたくさんのチームの演舞の様子が映っていたが、あまり自分の気に入るものは無かった。より民謡ベースで、和のセンスの強いものが気に入るのだなあと思った。またYOSAKOIソーランを作った長谷川さんの著書を読み、踊りに付属するパレードカーを「地方車(じかたしゃ)」と呼ぶことや、祭り参加者が費用を最大限負担することにより祭りが運営されていることがわかった。大学時代に祭礼に関する研究発表をして「資金の出所」をしきりに質問されたことがあったが、この著書のような角度からの見解であったと納得した。
 NHKで深夜に放映された「YOSAKOIソーランナイト」も録画して楽しんだ。


B前沢よさこい祭り公式サイト
 前沢ジャスコを会場に開催された。第2回ということで、前回よりも大幅に規模が拡大したのだという。路面を使う2会場とステージの、計3会場で各チーム1回ずつ演舞する。
 胆江地域では、江刺の「江刺華舞斗」、前沢の「紅翔連」「遊夢舞」、水沢の「幻夢伝」が古参であり、これらのチームの演舞が群を抜いてすばらしく、太ももの内側がぺったり地面につくような非常に腰の据わった踊りであった。構成員の中に厄年連の演舞でひときわ目立つ動きをしている方々もちらほら見つかり、YOSAKOIチームと厄年連が双方補い合い(チームメンバーが厄年連の核として動いたり、厄年連をきっかけにYOSAKOIをはじめたり…)、胆江の文化として大成されているのがわかった。
 この日もどしゃぶりで、にもかかわらず予定通りの開催であったので、天候に左右されないよいお祭りだなあと思った。


C水沢あきんど祭り
 当該年度の厄年連2団体が、春祭りと同じ生演奏による演舞を披露する機会。6月第2日曜に開催された。人数は大幅に減るものの、生演奏が厄年踊りの重要なポイントであることは上で触れたとおりなので、貴重な機会であったと思う。42歳厄年連はステージ披露3回のほか、ショッピングセンターの中、また門付け公演のようなことも行っていた。25歳厄年連は演奏のみを開いたステージで時間いっぱいまで披露した。


干支和祭り
D干支和まつり
 水沢夏祭りの一環として開催。平成18年は水沢・江刺・前沢の各地域から17団体が参加、単純に年代ごとにそろったわけではないが、厄年連の催しの移り変わりがほんの少しだけ垣間見られた気がする。
 42歳厄年連の場合、盆踊りの曲をアレンジしたり、衣装が仙台すずめ踊りのようであったり…と必ずしもよさこいカラーではなく、出てきた中で一番古い平成12年の厄年連は沖縄エイサーであった。25歳のほうは、平成13年に私が見に行ったときすでによさこいソーランを演じており、曲をじっくり聴くと総踊りの「パワー」や「よっちょれ」を自前で演奏しているものもあった。平成18年は前沢の25歳厄年連が「よさこいみちのく乱舞」をほぼそのまま使っているが、これも特異なことではないのだとわかった。
 また江刺の厄年踊りにも動きを重視した激しいものが多く、上記の見解はあくまで狭い判例からの見解だったと反省。江刺の場合はほとんどよさこいカラーを出さずに激しい踊りを創作しているのがすごい。
 このイベントも、単純なステージ披露ではなく会場わけの巡演披露であり、同日開催であった北上市のみちのく芸能祭りを凌ぐほどエネルギッシュで、見所の多いものであった。演者と観客の間に厳格に境界が設けられているのは北上のみならず広く郷土芸能公演の場と同じであり、このことが多種の踊りを集約した干支和まつりでは見えやすかったのかもしれない。


E石鳥谷夏祭り花火大会
 各種イベントにアトラクションとしてYOSAKOIが出演するパターン例。花巻のチームを含む3団体による演舞で、オリジナル曲と総踊りから何曲か、最後は出演団体全てが総踊りを演じて終演となった。


FよさこいINみずさわ公式サイト
 岩手県内最大のよさこいイベントで、秋の商人まつり併催として9月23日(祝)に開催される。盛岡・前沢では、少なくともYOSAKOIベースの演舞を持つ厄年連が必ず何団体か出演していたが、水沢よさこいでは厄年連の出演が全く無く、YOSAKOIチームのみのイベントであった。本場の高知や北海道から有名団体を招き、総勢50団体超の規模で正午から夜更けまで開催する。有料パンフレットには気に入った踊り手の背中に貼るシールが付録についているなど、諸所に工夫が見られて面白い。


G日高火防祭 前夜祭
 毎年4月28日に開催される。この日は午後から当該年度の厄年連が市内随所を巡って公演するが、一般観光客に日程を明かすのは駅前通の公演のみである(地元紙「胆江日日新聞」に全面広告を載せ演舞日程を公開)。駅前通では鹿踊りや前年の厄年連が前座的に演舞を披露し、夕闇を待って2台の囃子屋台を本部前に並べ「前夜祭開会式」を執り行う。会終了後は相打ちのデモンストレーションなどが披露され、割りと長時間屋台の運行が見られる。その後当該年度の厄年連が42歳・25歳の順に花車を伴って登場し、祭典当日にはない夜間の演舞を繰り広げる。方向を変えて2度演舞し、その後25歳厄年連を交えて「前夜祭閉会式」を行う。
 風戌伝ファンとしてはこれが見納めであり、前年のおよそ10分の1の少人数でしめやかに演じられる様子に名実ともに前年厄年連の「終幕」を感じた。(※年によっては片方の前年厄年連が欠けることもある)

 令和5年、風戌伝は名前が変わり、42歳厄年連として火防祭に再出場している。




 

文責・写真:山屋 賢一

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