人物を伴わない山車
主に戦前に盛んだった趣向である。山車に人物を伴う趣向を設けず、鯛だの達磨だのウサギだのを、ただ大きく作る。盆に付くはずの牡丹も松も桜も、一切無しにする。どちらかといえば正規の山車組でないところで、突発的な奉納に際して採られる趣向であったようにも思われる。特にも盛岡の魚市場では鯛・鰹・伊勢海老など海産物を大きく作った山車をたびたび繰り出し話題をさらった。これらは本業への宣伝効果も大いに上げたことが想像される。 このテの趣向では最も採り上げられやすく、「雨が降る」「手間がかかる」「効果が少ない」とゲテモノ(動物を伴う趣向)を嫌う作り手たちも、鯛だけは例外・別格として扱ってきたらしい。 大鰹の山車は少なくとも戦前に2度、豊漁を祝って作られた。山車が進むと鰹が泳いでいくように、頭を山車の進行方向に向け腹は下にして作ったらしい。非常に奥行きのある山車だったようである。絵紙には、幅や丈など大鰹の具体的な長さが紹介されている。 盆の上に大きな籠を編み、紙でこしらえた大きな切花を数種類挿した山車である。牡丹も籠に挿す形で紅白自由に付けた。 禅宗の開祖と伝わる中国の僧侶 達磨大師(だるまだいし)を飾ったものである。日本では手足の無い真っ赤な卵形の人形に髭の生えた顔を書き、「七転び八起き」の縁起物として親しんでいる。 繭玉と大きな蛾を飾った山車が大正時代の盛岡で出ている。東宝特撮映画「モスラ」製作の遙か前のことである。戦前の日本における代表的な海外輸出品が生糸(きいと)、すなわち絹の糸であり、これをもたらす蚕(かいこ)の繭に対して現在よりずっと深い思いが当時の人々にはあった。絵紙を眺めると軒花には桑の葉を模した飾りが見受けられ、背面には蚕卵紙(さんらんし:蚕の卵が産み付けられた紙)を手にしたお姫様が見える。養蚕業から連想される図象各種があまねくこの山車に盛り込まれている。 蛸はそのまま作ってもユーモラスだが、たこ焼き屋の看板のように頭に鉢巻きを締めると尚面白くなる。やはり他の飾り物は省いてしまい、蛸の頭の曲線が山車のフォルムにすっぽりかかるような作品であったらしい。絵紙には、大岩の上のあたりにひっついた蛸が扇や鈴を手に持ち踊る有り様が描かれている。 立ち岩はなく、山車の中央に立つ御柱を牡丹の木に見立て、紅白の牡丹を不連続に飾っている。その真ん中あたりに大きな狂い蝶を飾った山車である。
戦前期、地元出身の軍人の戦死を悼んで出された山車で、プロペラの付いた大きな戦闘機を舞台いっぱいに展開したものである。
前述した類の無人物の趣向とは異なるが、やはり現在途絶えている無人物山車の趣向として以下のような一群がある。詳しく紹介するには資料と経験があまりにも足りないので、ここには少しだけ書くことにする。 鯛や御神酒(おみき:神様に捧げるお酒)などを奉納品の前に備えるのが、これらの趣向に共通する決まりごとであった。提灯や灯篭など吊り下げて使う納め物は、盆の上に黒屋根をかけて飾ることが多かった。他、額を献じる場合も屋根がかかるのが通例であったようである。大正の初め頃までは盆の上に錦で飾り立てた高台を設けるのみで岩や波・花などは一切付かなかったが、次第に岩・牡丹・下げ波が付くようになり、台が石造りを模した簡素なものに変わっていく。たとえば大正11年の衝立奉納(八幡町)・昭和2年の四神旗奉納(新田町)の山車写真からは、通常の山車の人形部分だけが納めものに置き換わったように見える。戦後になると、納め物の山車にも天・地・海全ての飾りが揃うようになった。音頭には奉納品の由来となる中国の故事が読み込まれており、当時の祭り人の高尚さが伺われる。 (他地域の状況:更新制の山車で人物でない趣向を出す例)
岩手県外、南部流風流山車の外にこれに類する趣向を求めるのは、案外容易い。千葉の佐原では当年の稲藁で鯉や鷹を編んで山車に出すし、九州の佐賀には張子に漆を塗った大きな獅子や兜・鯛などが練り歩く「唐津くんち」というお祭りがある。
ただこれらは皆、同じ趣向を代々使い継いでいる例であり、更新性の趣向を伴いつつこのような無人物趣向をたびたび出すような例はあまり聞かない。一方で、例えば花巻の山車のルーツが鍋墨を塗った鯨の山車であるように、人物無しの趣向こそ風流山車の究極の原型という見方も根強い。ほとんどの趣向は現在、わずかな写真からその面影がうかがわれるばかりで、製法・運行作法・山車の全容など様々な部分に多くの謎を抱えたままである。
@鯛
大きな鯛が腹を上にして盆の上に寝ている構図で、体を折って頭と尻尾を高くする。おめで鯛がでんぐり返るくらい喜んだという趣向らしいが、唐津くんちなど全国的に見られる鯛の山車が腹を下にしているのと対照的である。大漁旗や金杯、日の丸扇などを添える場合もあったが、鯛だけで飾る場合は正面に向けて真横に据え、表からも見返しからも全く同じように見えるよう飾ったと思われる。目の部分に大きなカナダライをはめ込み、これに墨で目玉を入れると活き活きと見えたのだという。絵紙は鯛や達磨に限って、赤インクで刷られる恒例があった。
平成に入ってからは沼宮内で鯛の山車が復刻され、大きな話題を呼んだ。この鯛は紙で作った張子の鯛であったが、戦前・戦後すぐの写真や報道などを見ると、鯛や鯉など魚の類一般は竹枠に縮緬など高価な布地を張って作るのが主流であったと思われる。
達磨の山車の絵紙には実物の尺や径が注釈されており、顔は民芸調でなくかなりリアルに凝らしたようである。盆板より上の飾りは全く無く、大きな達磨人形を飾った山車で、軒花は盆から上に向けて立てて飾っている。絵紙は赤インクで刷った。
現在は八戸型の山車『竜宮玉取姫』や青森ねぶた『船弁慶』にリアルな大蛸が表現され、印象を残しているようだ。
盛岡と沼宮内で、昭和30年代まで「納め物(おさめもの)」「上げ物」と呼ばれる山車が祭りに出ていた。神鏡(おかがみ)、狛犬(こまいぬ)、手水鉢(ちょうずばち)、旗、太鼓、額、衝立(ついたて)、灯籠、提灯、天蓋(てんがい)など様々なものを記念品として祭り組が神社に奉納する。その際、ただ奉納するのでなく祭典を機に納め、祭典に於いては奉納品を飾り物として山車を作り、観衆にお披露目する風習があった。
盛岡での「納め物」山車最終登場年は昭和34年、沼宮内では昭和37年である(見返しには昭和50年代まで登場・令和元年に復活)。一戸や石鳥谷などでは試みられた形跡がない。各趣向・音頭については、盛岡山車演題ひとこと講釈に整理した。
大迫のあんどん祭り(8月14日〜 岩手県花巻市)では、上若組がたびたび大きな顔だけの山車を出している。松や桜といった風流の飾りは付いているが人物抜きの趣向として、平成24年には二戸や九戸、野田村で『龍虎の戦い』が試みられた。龍は雲を従え虎は風を従えるので、両者の争いを嵐の只中に表現している。
写真・文責:山屋 賢一
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写真
絵紙
音頭
鯛
4件
3件
光る水玉 波乗り越えて 躍る大鯛 勇み肌
開けて初めて 三ツ百年の 盛る岡こそ おめで鯛
鯛はめでたい 祝いの肴 多く居るとも 書いてある
神に捧ぐる 千尋の海の 世にも稀なる 大真鯛
年は豊かに 国鯛らかに 盛る御代こそ ありがたき
鰹
1件
2件
(不明)
花籠
1件
1件
(掲載の通り)
伊勢海老
1件
(不明)
達磨
1件
2件
七回転がる達磨でさえも 八日八日と起き上がる
辛い人生も 七転び八起き 達磨大師の 教えあり
月兎
1件
1件
(不明)
繭に蛾
1件
1件
国威高まる日ノ本は 千代に栄える絹の糸
花の手弱女 糸繰り上げて 白き二億の金が成る
蛸
1件
1件
世にも稀なる大蛸見やれ これも豊美の印なり
蝶
1件
1件
栄る牡丹は岩手の里に 狂う胡蝶の舞い遊び
飛行機
1件
1件
軽き一命 重きを職務 身をぞ落とせど 名を揚ぐる
【掲載写真】絵紙『鰹』昭和期盛岡※・『願復興大鯛』沼宮内の組H24・絵紙『大達磨』大正期盛岡※・『奉納額』桜山神社祭典山車(大正期盛岡)◎・『御太鼓奉納』沼宮内の組R1
【他系統】『龍虎の戦い』岩手県野田村H25/(※もりおか歴史文化館提供資料、◎は個人提供品)