青森県三戸町 三戸三社大祭
三戸(さんのへ:青森県三戸町)の山車を初めて見に行ったのは、平成13年の9月13日だ。これはよく覚えている。当時はまだ休日に合わせる日程設定でなくて、次の日から盛岡のお祭りで、その前の日に出掛けた。当時はまだ、盛岡でも13日から山車が動くなんて知らなかったのだ。そういう、大学1年の時である。サークルの同輩だったか先輩だったかに、とにかくたくさん山車が出ると聞いて出掛けた。
初めに、三戸の山車は盛岡流である。近年誤解する人がかなり増えてきたが、八戸流ではない。その証拠に山車には生木の松が飾られ、松には紙の藤が垂れ、牡丹があり桜があり、演題札には「風流」「見返し」の冠がある。ただ、花の種類は盛岡よりはるかに多く、そのうち松に絡む藤の花と足元の菖蒲や菊などは紙製である。花巻とか、幼い頃に見た石鳥谷の山車に似ている。桜は玉桜ではなくて、ビニール製だったりお花紙の花だったりする。軒花が付き(当地ではバレンと呼ぶが)、真ん中を黄色く染めた紙製の玉桜を使ったり、ビニール製の色とりどりのものを使ったり様々である。出先に屋根があるのが三戸流で、ちゃんと「軒」花になっているのだが、軽米(岩手県九戸郡)に嫁入り(貸出)する際は、この屋根は省かれる。反対に松は、三戸では両脇にひと枝程度付くばかりのいわば”藤を下げる装置”だが、二戸駅前など嫁入先ではだいぶ存在感を増す。 見物初年は、2〜4体程度の人形構成が主流であった。仕掛けも上に伸びる手動の長い板(ドンデン返しという)のみで、上手くはないが見やすい山車だった。写真には残さなかったが、弁慶の立ち往生を飾った1体ものの山車が出ていた記憶がある。見返しの一寸法師が伴う大きな鬼は八戸に似た意匠だったが、これもまた八戸より見やすかった。 平成の末には、だいぶ八戸山車化が進んできた。それでも見返しには草木の飾りが残り、表現には当地なりの置き換えやクセがあって、それが面白い。里見八犬伝の『芳流閣の決闘』とか、『鬼若丸の鯉退治』があったと思う。この時の最優秀賞は『勧進帳』の山車で、歌舞伎の衣装を忠実に作った展開式、上に鳳凰とか白拍子が上がる仕掛けだった。 供奉する芸能はひとつだけで、「三戸神楽」とか「斗内獅子舞」という。例年は行列用の『七つ物』のみを披露するが、『鶏舞』『番楽』『盆舞』など幕物を次々見せた年もあった。ある年は、先頭で刀を振る舞手に見入った。勇ましい見事な動作であった。薙刀も実物に近い姿で、最高尾には権現様が居て最後に歯打ちをした。 (平成13・16・23・令和元・4・6年見物) 初 日:山車出発13:30→休憩15:40→折返17:30→納車19:00 @八日町の見返し『名月赤城山(国定忠治)』(平成13年)、初見時に一番「掘り出し物だ!」と喜んだ趣向 写真・文責:山屋 賢一
数年経ったある年は、二戸の知り合いに「隣町の三戸でも祭りがあるから、二戸に泊まって連日見ればいい。」と誘われた。この時は二戸まつりと三戸の祭りが同じ9月第1週の金・土・日曜の開催だった。
…そういう時期が長く続いて、現在三戸の山車は、9月の最終週に出ている。前と違って、競合する祭りがほとんど無い時期だ。だからコロナ禍後は、三戸に山車を見に行く年が増えた。
ある方からは、南部の山車の最古参は三戸山車だと聞いた。そういう由緒ある山車祭りなのである。『福島市松』など二戸の平三山車が上がったことも度々ある。展開式になる等八戸化してきたのは近年のことで、昭和の末に生まれ大学1年時に初見物に至った私にすら、それはわかる。ただそれが見えづらくなるほどに、近年の三戸山車の八戸化は激しい。
ところで、三戸駅前と三戸の市街とは結構離れている。歩いても行けるが、歩きたくなる距離ではない。駅から青い陸橋を目指して歩き、帰りは青い陸橋を目指して駅に向かうと道に迷わない。見始めたころは、三戸駅前にも三戸祭りとは違う山車祭りがあり、それは「南部まつり」といった。由来を少し調べると、もとはこの地域からも三戸祭りに山車がひとつ出ていて、それが4台に増え、三戸と同じ作法で独立した山車祭りになったのだという。南部まつりは今は無くなり、三戸の山車も当初の半分強に台数が減った。
夜まで出る山車である。初日は駅から遠い方(同心町)に山車が集まり、昼過ぎに出発して駅側に向かってくる。最終日は逆で、駅に比較的近い元木平の三戸病院付近に山車が揃って、出発は午後1時過ぎである。最近はこの場面を狙って見に行き、出発まで見て他をかけ持つ見物にしている。集合場所までの移動には、盛岡や八戸と似たアップテンポな山車ばやしが使われる。これが神輿行列に入ると、典雅な囃子に変わる。最初はこの典雅な囃子のみを聞いて、三戸の山車が故郷のそれとだいぶ遠いと感じた。今は親近感を感じつつ、各々の地元から三戸病院に向かう三戸山車の姿を見ている。中日は出ず、合同運行以外の山車の動きは不明である。一戸以南の自由な動きは、おそらく無い。
山車を出すのは「組」でなく、皆ナントカ町内会であった。1台は三戸高校で出していて、しばらく続いた気がする。町が古風で、山車にもそれに合う良き鄙びが在った。
毎回精巧なマンガ・アニメの見返しがあって、感心する。後で見返すとおおむねそれは、元木平の山車であった。他、描き方が独特で大迫力の波の絵があった。恵比寿様のタイ釣りの山車で、これはどこで出したものかまではわからない(後方に囃子が居ないと、どうしてもこういう見方になってしまう)。祝儀披露の熨斗書きが、どの山車の見返しにも長く連なって提がっていた。
コロナ禍後は比較的早く山車運行が復活し、この時に台数6と気付いてだいぶ減ったと思った。この年に限っては、行列は山車と神楽だけで神輿が無かったと記憶している。『かぐや姫』の山車が、ペガサスを大胆に手前に出す構図で出ていた。
起き上がる板は相変わらずで、平面のそれにかなり多彩な工夫が入る。ただ背景を描くだけではないのだ。人形がひとつ一緒に上がってくることもあるし、碇知盛の上に劇画風の二位の尼・安徳天皇が上半身ばかりで居たり、口元血だらけの虎の顔が虎退治の喧噪の上に現れたりする。それらは盛岡が取り損ね、八戸は使い捨てたかつての風流山車の創意なのかもしれない。そういったことを看板以外にも色々と、三戸山車を見ながらいつも感じてしまう。板の上げ下げは八戸山車の展開よりもずっと頻繁で、それは無理のない仕掛けだからである。
他にいくつも、三戸独自の山車の在り方がある。先頭には必ず横旗、そのすぐ後に手古舞が続く。手古舞は純粋な江戸装束ではなくて、町ごとに意匠を揃えている。音頭は正式には「豊年山車運行音頭」と呼ぶそうで、綱元の左右の大人2人が掛け合って上げる。房の付いた大きな幣を手にし、扇を手にして音頭を上げる。小太鼓は複数居て稚児姿の女児が叩くが、中に立って叩く中(ちゅう)太鼓がひとつだけある。囃子を仕切っているのは音頭上げと、おそらくこの中太鼓である。中太鼓だけは、町によって据え方が様々ある。
半纏や浴衣はひどく現代的で、原色を合わせたような色味なのを毎回惜しいと感じる。掛け声をおおむね大人のみで掛けているのも惜しく(少なくとも拡声部分は)、それが囃子のリズムを無視しているように聞こえるのも惜しい。ただ、そうした惜しさの中で引き子たちは楽しそうに山車に集まり、楽しそうに引っ張っている。自分も三戸に暮らせば、いつかそうした作法に慣れるのだろうか。
合同運行を終えて山車が折り返すと、囃子が変わる。本拠に至ると山車はすぐには小屋に入らず、そのまま後続の山車を待つ。次々と山車が差し掛かるたび、拍手したり囃子を掛け合ったりする。最終日はそうしているうちに夕闇迫り、山車に灯が点く。町にも提灯が灯る。よき景色である。
日程概略
(中日は山車が出ない)
千秋楽:山車出発12:50→休憩15:40→折返17:30→納車19:00
掲載写真とその意図
A『恵比寿』の見返し、後方に見えるのが八戸型の『鞍馬山』(平成24年)
B六日町『宇治川先陣』・八戸山車化が進んだ山車の好例(平成30年)、後ろに見えるのが行き帰りの目印になる青い陸橋
C同心町の『素戔嗚尊』(平成23年)、波の描き方が盛岡の山車に近い
D元木平の見返し『芳流閣の決闘』(平成30年)、劇画風の仕上がりで武器も自由
E夜景(山車は在府小路、平成23年)
(表紙)下二日町『新皇将門と滝夜叉姫』(平成13年)、いまだに三戸で出た山車ではこれが一番良かったと思う
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