盛岡山車の演題【風流 真田幸村】
 

大坂夏の陣 真田幸村

 



紫波町日詰下組昭和60年(一戸橋中組借上げ)

 真田幸村(さなだ ゆきむら)は徳川家康によって豊臣家が滅ぼされるとき、大坂城を護って戦った武将である。城攻めに加わった大名のひとり 細川忠興は、幸村のすさまじい奮戦振りを「真田日本一(ひのもといち)のつわもの」と称え、代々語り継いだという。真田家は関ヶ原合戦でも豊臣方(西軍)にたって徳川秀忠軍3万8千を上田城に足止めし、戦後はその怨みを買って紀州九度山(きしゅう くどやま)に幽閉されていた。
 江戸に幕府を開き日に日に拡大していく徳川政権を憂慮した淀君は各地に散った敗軍の勇者を募り、後藤又兵衛、木村重成(きむら しげなり)、塙団右衛門(ばん だんえもん)、薄田隼人(すすきだ はやと)らを大坂城に迎えて臨戦態勢を整えた。幸村にも白羽の矢がたち、厳しい警戒の目を真田十勇士の活躍でかいくぐりながら、幸村はなんとか大坂城入城を果たす。
 「冬の陣」では真田丸を築いて寡勢で徳川の大軍を翻弄、義経・楠公にならぶ日本三大軍師と恐れられた。徳川方の策略で城堀全てを埋められた後は、朱の旗指物を備えて家康の本陣めがけ、決死の切込みをかけた。

「一戸型」軽米町芙蓉団平成29年(一戸西法寺組借上げ)

 真田幸村の旗印は六連銭(ろくれんせん)である。これは戦場に散り地獄に落ちた侍が三途の川の渡し賃として鬼に渡す六銭で、一兵卒に至るまで死をいとわない真田隊の心構えを示している。真田隊はまた、兜も具足も血潮の真紅に染めた赤備え(あかぞなえ)である。大坂城を飛び出した真っ赤な軍勢が並み居る敵を跳ね除け一心不乱、家康の本陣を目指す。狙いは家康の首ただひとつ。押しも押されぬ天下人の「金扇の馬印」は大揺れに揺れ、本陣が後ろに下がった。なおも幸村は攻勢を緩めず、その槍先は家康の首筋にもう少し、あと少し、ギリギリまで迫る…。

 盛岡山車の『真田幸村』は上記経緯のうち後半の野戦「大坂夏の陣」を場面取りし、馬上の鎧姿を描く。盛岡山車としては一戸町の橋中組が作ったのが最初で、平成に入って盛岡・川口・石鳥谷でも出ている。橋中組は背景に立体的な大坂城を作り、家康を狙って槍を突き出す姿に飾った。また現況までの作例では唯一、髭を生やした幸村である。見返しは家康の孫娘で豊臣秀頼に嫁いだ『千姫(せんひめ)』としたが、以降は真田十勇士の『由利鎌之助(ゆり かまのすけ)』や幸村の妻『竹林院(ちくりんいん)』が真田幸村の見返しとして登場している。

『真田丸の井伊直孝』紫波町日詰上組平成23年

 槍を両手でつかみ突いている姿を仮に「一戸型」とするならば、平成の作例において一戸型は一戸山車のみの構図で、町外では槍を片手にして馬上に在ったり采配を掲げたり等の別構図で作っている。中野のと組は盛岡市内では特に珍しい武者演題を好む組だが、平成19年に真っ赤な陣羽織で采配をかざす幸村の山車を出した。八幡下り・大通りパレードなど「晴れ舞台」ともいうべき機会では三日月前立ての兜を鹿角を生やしたものに交換し、顔には戦国甲冑ならではの頬当て面をかぶせるユニークな趣向を披露している。同年には岩手町の川口でも幸村の山車が出、馬上には在るが槍を突き出さず片手にする構図とした。甲冑は源平ものはもちろん他の戦国ものとも差別化して赤備えの具足とし、以降の作例も鹿角の立った兜・赤の鎧で幸村の山車を出している。

「槍片手」花巻市石鳥谷町中組令和元年

 以降は真田幸村以外の、大坂の冬の陣・夏の陣に関連する山車演題である。一戸町では本組が、千姫を燃え盛る大坂城から救い出す『坂崎出羽守(さかざき でわのかみ)』、徳川方でもっとも勇戦し壮絶に戦死した『本多忠朝(ほんだ ただとも)』を作っている。出羽守は千姫を背負い、忠朝は鎧武者を持ち上げるという珍しい構図である。野田組は真田十勇士の荒法師『三好晴海入道(みよし せいかいにゅうどう)』を、石灯篭を諸手で差し上げる構図で山車に飾った。紫波町の日詰では上組が、赤備えの甲冑を着込んだ『井伊直孝(いい なおたか)』の真田丸に攻めかかる姿を山車に作っている。幸村と共に大坂方として戦った『後藤又兵衛(ごとう またべえ)』は盛岡のと組が山車にしているが、場面採りはより若い頃の、関ヶ原合戦の姿としている。と組はこちらで、「一戸型」の槍遣いの構図を使った。

 大勢を揺るがす快男児幸村とその仲間たちは、庶民の憂さ晴らしにうってつけの題材である。その夢がついに叶わなかったのも、風流山車が備える一種の悲哀に通じる。

『後藤又兵衛』盛岡と組平成27年



平三山車『大坂冬の陣』岩手県二戸市福岡

(他地域の幸村の山車・大坂の陣の山車)
 県内では二戸の平三山車で、若々しい幸村の山車が出る。兜はかぶせず、鉢巻の上に六連銭を掲げるのが通例である。通常は馬上の姿だが、石垣を背景に大砲を傍らにした大坂冬の陣の場面も登場した。平三山車では他に兜の下に香を焚き込めて合戦に臨んだ大坂方の貴公子『木村重成』や、幸村の子で若年にして戦死した『真田大助』も山車になっており、これらは角川講談の影響を色濃く残した演題群といえる。
 戦国武者の題を好む秋田県では、角館でも土崎でも幸村の勇姿がよく取り上げられている。後藤又兵衛と伊達政宗の対決を描いた凝った作品もあったが、幸村の場合は、やはり家康と対峙する構図が多い(岩手では脇に家康が出てくるような作品が少ない)。

扇ねぷた『明石全登』青森県弘前市

 青森県では、ねぶた・ねぷた・八戸流の山車で真田幸村を見た。伊達政宗と対峙する構想は久慈秋祭りや五所川原のねぶた祭りで実見したが、武者の配色が赤・黒に限られる点が他の武者演題に無い独自の味わいとなる。扇ねぶたでは、冬の陣をうたって幸村の赤い鎧の上に雪を描いた趣向が印象的であった。幸村とともに「大坂五人衆」として戦った明石全登(あかし てるずみ)が登場したこともある。
 全国的に大阪の陣の飾り物を探すならば、決戦地大阪のだんじり祭りがメッカである。山車のあらゆる部分に掘り込まれた武者絵の彫刻には、画題に難波戦記の有様を求めたものが多い。大久保彦左衛門に護られて家康が危難を逃れる場面は『槍摺りの鎧』と呼ばれ親しまれている。



文責:山屋 賢一/写真:山屋幸久・山屋賢一



(ページ内公開)

盛岡と組 【頬当面】   一戸上町組 【見返し 由利鎌之助】   川口み組 【見返し 竹林院】    真田大助 (平三山車)

本項掲載:日詰下組S60(一戸橋中組作・一戸型)・軽米芙蓉団H29(一戸西法寺組作・一戸型)・『井伊直孝 大坂の陣』日詰上組H23・石鳥谷中組R1(片手槍)・『後藤又兵衛』盛岡と組H27
・平三山車『真田幸村奮戦(冬の陣ver)』岩手県二戸市・扇ねぷた『切支丹大名 明石全登』青森県弘前市




山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
真田幸村 一戸橋中組・日詰下組(本項)
盛岡と組
川口下町山道組
一戸上町組
川口み組
一戸西法寺組(本項)
石鳥谷中組(本項)

二戸福岡長嶺
二戸福岡秋葉他(冬の陣)(本項)
一戸橋中組(色刷り)
盛岡と組(辰一:色刷り)
川口下町山道組(真二:色刷り)
一戸上町組
一戸西法寺組
石鳥谷中組(手拭い)
千姫 日詰下組
由利鎌之助 一戸上町組
竹林院 川口み組
石鳥谷中組
三好晴海入道 一戸野田組
坂崎出羽守千姫救出 一戸本組
本多忠朝 一戸本組@A
一戸本組
井伊直孝 日詰上組(本項) 日詰上組
後藤又兵衛 盛岡と組(本項)
一戸野田組
盛岡と組(本項)
一戸野田組
【他】真田大助 九戸村伊保内上町
野田村中組他
二戸田町他
【他】木村重成 二戸福岡愛宕
二戸福岡田町
二戸福岡田町
二戸福岡秋葉
ご希望の方は sutekinaomaturi@outlook.comへ

(音頭)

戦国無双の 誉れも高き 知将(ちしょう)幸村 晴れ姿
武勇轟
(とどろ)く 知将の真田 日本一(ひのもと いち)と 名を残す
とくと味わえ 真田が戦 日本一の つわものよ
知将真田に はためく風は 六連銭の 馬印
(うま じるし)
燃ゆる思いを 鎧に託し 紅蓮(ぐれん)の炎 赤備え
燃えよ幸村 不屈の槍で 新たな時代を 切り拓け
並み居る敵を 蹴散らし進む 猛将真田の 赤備え
知将幸村 秘策を明かす 狙うは家康 首ひとつ
血煙
(ちけむり)上がる 茶臼(ちゃうす)の陣に 無念家康 討ちもらす
智勇優れし 幸村なれど さだめはあわれ 夏の陣
茶臼の陣で 勇士とともに 力尽きしに 最期(を)遂げ
矢玉尽き果て 刀も折れて 無念幸村 花と散る



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