岩手県野田村 野田観光まつり

 

 


上組見返し『龍神』

 九戸郡野田村は、北三陸の拠点都市のひとつ 岩手県久慈市の隣村である。江戸時代は内陸へ牛の背に乗せて塩を運ぶ「塩の道」「ベコの道」の起点として栄え、久慈より人口も多かったという。当時のままの製法を採用した「のだ塩」や大ぶりに養殖した「荒海ホタテ」などが、現在の特産品である。
 観光まつりは村内中心部の高台に鎮座する愛宕神社の祭礼で、平成13年に完成した神社前の巨大な鳥居が町のシンボルとなっている。神社から三方に道が広がり、駅側から上組(カミクミ:カにアクセント)・中学校側から中組(ナカクミ:カにアクセント)・鳥居の正面から下組(シモクミ:モで上がり調子)が、それぞれ山車を引き込んで神社に奉納する。

 久慈の山車は八戸流で、長らく八戸のその年の山車をそのまま輸送して使っていた。野田村でも1台、八戸の十六日町から山車が輸送されていたし、南隣の普代では2台八戸山車を持ち込んでいた。さらに南下すると、岩泉周辺まで山車文化は断絶する。このような立地条件から考えると、野田村の山車行事は久慈流、山車のみは実質的に八戸流となりそうなのだが、なぜか八戸山車は3台中1台(下組)しか登場しない。残りの2台(上組・中組)は、二戸の山車職に頼んだ「平三山車」である。二戸から野田までは車を使っても1時間以上かかるし、公共交通機関では久慈や宮古からしか行けない。つまり近隣であるから二戸の山車が登場しているのではなく、野田村が主体的に二戸の山車を選んでいるのだ。

 

最大の平三山車

中組『弁慶立往生』:下絵は不肖山屋による

 二戸の山車職人 平下信一さん夫妻のお話が、私が野田村に出向く直接のきっかけになった。なんでも、毎年野田の山車への意気込みはとりわけ大きいというのである。野田の山車台車は平三人形を上げる地域では一番幅が広く大きく、壮大な構想を形にしやすいらしい。
 実際目の前にして、言葉の通り野田村の平三山車は他地と比べて明らかに壮大であった。岩に波、紅葉や桜、大道具小道具の類がこれでもかと詰め込まれて、大変豪勢な山車に仕上がっている。他で出るのと同じ趣向でも、様々な大道具が足されて野田独自の姿に見える。市街に繰り出せば道幅いっぱいに広がり、脇を歩くのが難しいくらいである。
 少ない人形で仕上げられた平三山車は、どちらかといえば一戸以南型・盛岡風だと長らく思っていた。だが、人形同士の距離を適切に保ち、大太鼓を前にしても人形が隠れないほどの間隔をあけて組まれた野田の平三山車を見ると、盛岡の面影よりも往時の八戸山車を髣髴とさせるものがあった。平三山車が盛岡山車と八戸山車、両者の美意識を充分にはぐくんで出来上がっているのだと、野田村に来て初めて実感した。

 

 人形以外に目を向けても、野田村の平三山車には魅力がある。
 上組の山車台車には発泡スチロールで作った現代風の欄間が付いて、全体を豪華に見せている。脇には開閉式の軒花が飾られ、色は青や緑が混じって賑やかだ。中組の場合は台車の部分を幕で覆っているが、単に紅白の幕で飾るのでなく渋い色で染めて組の名を入れた幕を使う。重厚で落ち着きがあり、見事である。
 どちらの組も自前の雪洞を飾っている。プラスチック製の朱塗りのものもいいが、和紙を張った昔ながらのものも趣がある。発注ではあるが、それを自分たちのものにしようという心意気が見え、同じ借り上げ文化の元で育った私の心は大いに震えた。

 

野田の自作組

 下組は他の2組と違い、長らく八戸山車を使っている。上下左右に展開する山車は観衆の人気を一手に集め、村民の多くが「下組の山車が一番大きい」「一番良い」と思っている。平成18年に借り上げを止め、約40年ぶりに自前の山車を作った。以来『やまたのおろち復活』『児雷也』『西遊記』『直江兼続』『壇ノ浦の戦い/弁慶立ち往生』と自作を続けている。個々の人形の出来よりも八戸山車の規模や構造を優先的に学び、現在に至っているようである。


 

下組『源平壇ノ浦の戦い』:神輿行列と共に

 

野田の山車囃子

 野田村の山車の太鼓は、3組でほぼ同じに聞こえる。久慈の山車囃子に非常に近い。久慈管内の他の祭礼と同様、鉦は使わず2種類の太鼓と笛ではやす。
 浴衣姿の大太鼓が囃子の全体を仕切り、進行方向に向けてバットのような撥で叩く。打った後に必ず元の位置に構えるのが特徴の奏法である。進行の囃子と山車を停止する囃子があり、一番激しい乱打の拍子は辻を廻るときに叩く。久慈ではこの拍子を「カミナリ太鼓」と呼ぶ。
 小太鼓は比較的ゆっくりしたリズムで、打ち手の一人が「さーんしー」と声をかけて始める。太鼓の子供たちは「やれやれやれやれ」といって叩くが、引き子の大人は「よーいすよいさ」と久慈風のイントネーションではやす。
 神社の門前などで音頭を上げるが、久慈や八戸にも見られる祝い言葉の木遣り音頭である。手木(運行責任者)が扇で口元を隠して上げる。音頭を上げるときは、合いの手を入れるために引き子が山車の前に集められる。音頭も笛も掛け声も、一切マイクで拡声しない。スピーカーを積まない山車というのは、なかなか珍しいと思う。山車が開かれ音頭が上がり終わると、囃子がカミナリ太鼓になる。神鳴り、つまりは神様が「良い山車だ、良い山車だ」と喜んでいるようだなあと、私は毎回聞いている。
 初日は笛がお通りになって初めて出てくるようで、個別に神社前などに集まるときには太鼓のみを囃す(単に人が集まっただけかもしれないが…/最終日には運行当初から笛が入るようである)。笛吹きは色とりどりの浴衣姿で、中組だけは笛吹きを山車の上に上げて運行している。

川端の看板

 

山車のほかにも

 お祭りの日には駅前の川原の両側、お祭り広場などに芝居絵、映画の絵、アニメの絵など思い思いの絵を描いた看板がならぶ。村内の各企業がお祭りにあわせて出しているものらしく、地域と密着した地場産業の姿が垣間見えた。看板は表と裏で別の絵が描いてあって、夜には中に明かりを点す行灯である。


 

上組『和藤内』:神社正面の出店通りを運行

お祭りの流れ

 祭典期間は正午から終日、中心市街全体に交通規制がかかる。自ずと町はのんびりとした雰囲気に返り、祭りに集う人の流れも一様でない。自然に来て、自然に帰る。
 初日と最終日には午後1時から4時過ぎまで、御神輿を先頭にした行列が町内を巡回する。行列に付くのは山車のほかに、やたらに多く水をかけられる練神輿が数基と、野田神楽である。神輿は激しく上下しながら回す担ぎ方で、活気があって良い。野田神楽は久慈の山根神楽によく似ているが、囃子がはっきりしていて歌も聴き取りやすい。鳥居前に至ると鳥兜2人と獅子頭2基で輪踊りをし、その後一人立ちの権現舞に変わってかなり長い歯打ちを見せる。 歯打ちの部分は久慈の神楽に近いが、直立状態でなく反ったり沈んだり、変化のある歯打ちであった。最終日の夕方、神輿が神社に帰った後には、権現舞の各戸門付けが見られた。
 初日は、山車が昼過ぎに各地区を出発し、2時45分に愛宕神社の大鳥居をくぐり、出店が両側に並ぶ野田界隈を合同で動く。合同運行は休憩を挟んで4時半ごろに折り返し、上町界隈で解散となる。その後はおのおの自町内以外を回って、6時半ごろまで門付けをするという。

 中日は山車の運行が無い。チラシに山車小屋の位置は示してあり小屋自体は開いているのだが、山車を見せる感じの置き方ではなかった。一番実感に近い言い方だと”道具として置いてある”感じである。ゆえに山車を見に行くなら、中日は全く向かない。昔は県内各地から著名な郷土芸能を呼んだりしていたようだが、現在はYOSAKOIソーランのイベントで盛り上がり、夜は花火を上げる。

中組見返し『浦島太郎』:山車競演

 

 最終日はお還りで、午後1時に上町を出発し、2度鳥居前を通過する。観衆もだいたいいつ頃来るかわかっているようで、にわかに人が出てきたなあと思うと通りに神輿が見える。
 神輿が神社に帰ると山車は休憩となるが、道の真ん中にドーンと山車を止めて休めるのは野田ならではのことだ。山車組の門付けは山車を伴わずに行われ、音頭の合いの手を入れるために若者を10人くらい引き連れて歩く。山車は終始連動して動き、本拠への出入り以外には個別に動かない。
 夕闇が迫ると、大鳥居に至る3方向の道の端に山車が移り、ゆっくり鳥居前の広場に集まってくる。野田観光まつり最佳境の「山車競演」である。山車が集まってくるこの場面こそ、野田観光まつりの一番素晴らしい瞬間であると思う。野田の市街の特色を十二分に生かし切った見事な演出である。山車はライトアップされ、音頭もこの時ばかりはマイクで拡声され、3つの組で互いに祭り囃子を披露し合う。競演が終わるころに夜の帳がおり、山車は電飾したままそれぞれの本拠に帰る。
 夜7時頃に各組の山車太鼓が途絶え、久慈地域一円で盛んなナニャドヤラ盆踊り大会が役場前で行われて観光まつりは終了する。


中組『自雷也』:上町の通りにて出発待ち

 初めて見に行った頃の野田観光まつりは平日開催であったが、それでも多くの観客や引き子が集まっていて感動した覚えがある。地域がお祭りを熱心に受け入れ楽しみに待っている雰囲気が、そこかしこに確かに感じられた。前述の平下さんは、山車の構想の大きさだけでなく野田の人々の山車への一生懸命さを強く感じているというが、私もまったく同感で、野田村の祭りに対する姿勢が快くてならなかった。大人になり仕事で縁も出来てからは、この村の祭りはなお愛おしくなった。


(追記)不断・改称・復旧

3車合同山車の見返し『義経八艘飛び』

 東日本大震災の時、北沿岸地域で最も大きな被害が出たのが野田村であった。驚かされたのは、この被災の年にすら、野田の方々が山車を絶やさず出したことである。
 津波を免れた上組の台車に中組の太鼓を乗せ、全てを流された下組も加えて3組合同で山車を引いた(これを当地では「3車合同」と呼んだ)。平下氏はこの年無償で3車合同の山車を上げ、新聞には今までにないくらい大きく、カラーで野田の山車が載った。題材は牛若丸で、後に大成する若者の姿に野田の未来への希望と決意が重なって見える気がした。3車合同山車2例はいずれも、見返しにも表並みの豪華な趣向を上げた。
 震災の年は「復興支援イベント」、翌年からは「野田まつり」として催行され、平成25年に上組・中組の2台、翌26年に下組が待望の復活を遂げた。平成27年には往事の如く夜間電飾を灯した山車が鳥居前3方に集い、「山車競演」が行われた。

出を待つ3台を見返し側から

 

文責・写真 : 山屋 賢一

 

※平三山車の登場する山車行事・製作歴一覧

※八戸流風流山車の諸行事

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