盛岡山車の演題【風流 新田義貞】
 

新田義貞

 



岩手町川口み組平成11年

 新田義貞(にった よしさだ)は足利高氏(のち尊氏)・楠木正成らと共に鎌倉幕府を滅ぼした、源氏の武将である。その後、後醍醐天皇による建武新政(けんむのしんせい)が成ったが、天皇が武家より公家を重んじたため数年で崩壊し、足利尊氏(あしかが たかうじ)は天皇を廃し、新たな武家政権を作ろうとする(のちの室町幕府)。義貞や正成は後醍醐帝方に立って尊氏と戦ったが、武運拙く敗れた。
 この一連の戦いを「南北朝争乱(なんぼくちょう そうらん)」とよぶ。盛岡山車の武者の演題は大きく「源平もの」「南北朝もの(太平記もの)」「戦国もの」に分かれるが、このうち南北朝ものは他ではあまり力点が置かれず、盛岡広域でも作例は徐々に減ってきている。

 北条の悪政に愛国の志高く反乱の兵を挙げた新田義貞は、六波羅探題を落とした足利高氏に呼応して鎌倉に攻め込もうとした。ところが武士の都の鎌倉は陸路三方を切通しなどで守られ、稲村ヶ崎(いなむらがさき)では満潮の海が攻め手を遮っている。夜明け前、兜を脱ぎ、腰の黄金造(こがねづくり)の太刀を諸手に押し頂いた義貞は、天に向かって静かに祈りを捧げた。「我らが後醍醐の帝は竜神の生まれ変わりである。竜神もしいま天にましまさば、世を正さんと起ったこの義貞の苦衷を哀れみ、一時の間、稲村ヶ崎の潮を引かせたまえ」太刀を海へ投げいれると思いが通じた如く、潮はみるみる引いて鎌倉へ向かう一筋の干潟ができた。これを好機と新田軍は一路早暁の鎌倉に駆け込み、幕府を滅ぼしたのである。
 日本の歴史が大きく動いた瞬間の、奇跡の場面である。一説に、幼少の砌(みぎり)より天文地勢に通じていた義貞が潮の引く頃合をはじめからわかった上で「神懸り」を演出し、味方の士気を奮い立たせたのだともいう。

盛岡市一番組平成22年

 従者(あるいは実弟の脇屋義助)を伴って刀を両手にする侍烏帽子の義貞は、盛岡周辺で割りと古くから山車に作られていたようである。戦後間もない頃の音頭には「逆(逆臣、逆族の意)を討つ」と読まれ、戦前皇国史観の面影が垣間見える。刀の位置決めが製作上最大のポイントで、無造作に決めると顔を真一文字に遮って台無しになる。胸の位置にささげるか、あるいははるか頭上にささげる姿で作るのが良いようである。
 場面上義貞が棒立ちであるのはいかんともしがたく、なかなか躍動感は生まれない。一度前に踏み出すような躍動的な体勢が工夫されたことがあるが、写真を見る限りではかなり効果を上げている(盛岡本組、昭和30年代)。棒立ちなのを逆手にとって、義貞が松を突き抜けて高く上がるという仕掛けが試みられ(盛岡一番組、昭和40年代)、近年電動リフトを使って復刻された(平成22年)。
 義貞には必ず髭が生えていて、家来には生えていない。家来の体勢は様々だが、自身は兜を着けたまま義貞の兜を預かり、もう一方で幟旗を支えている構図が一番収まりが良いようだ。従者が付かないタイプは意外に少なく、浄法寺では太刀を捧げる髭の無い義貞の人形1体を高い位置に据え、下部には荒れ狂う波を描いた。宝剣は鞘に入った状態でかざされるのが普通だが、戦前の絵紙には刀を抜き身で捧げる構図がある。
 他地域では「義貞鎌倉攻め」等と題が付くことが多いが、盛岡周辺は一貫して『新田義貞』か『稲村ヶ崎』である。

「藤島合戦」沼宮内大町組平成12年

 新田義貞は不運な武将としても知られる。尊氏反発後、一時は彼を京から敗走させ天下一の武勇を誇ったが、楠木正成や北畠顕家らが相次いで戦死すると次第に孤軍奮闘の様相となり、再起を図って北陸に逃れた。この北陸でやっと勢力を盛り返した矢先、流れ矢に当たって命を落とすのである。絶命の地は藤島で、田の間を縫う細い畦道を行軍していたところを不意打ちに遭って落馬し、泥田のぬかるみに足を取られたところを射掛けられた。
 この場面を美化した武者絵が、戦前の国史画帖「大和櫻」にある。この構図をそのまま写した義貞の山車を、盛岡中野のと組が出した(昭和55年)。馬は騎馬としてでなく矢を受け悲鳴を上げる役で使われ、踊るように片足を上げた躍動的な義貞が両手に太刀を振るい、背後に愛馬を守って矢を切っている。刀の一振りは源氏の宝刀・もう一振りは北条家の宝刀という。
 額を射られて目が見えなくなった義貞は死を覚悟し、自ら首を切り落とし土中深く埋めた。余りに突然の死で誰もその亡骸を義貞であると信じず、体内に後醍醐帝の宸翰が見つかりようやく義貞だと確認されたのだという。「犬死」とも揶揄された義貞の最期だが、山車ではいかにも劇的に、無念の思いありありと描かれていて見事である。
 平成に入って沼宮内の大町組がこの形の義貞を製作し、大変な好評を得た。令和元年には一戸の上町組が「湊川で奮戦する新田義貞」として取り上げ、足元は田であるから実る稲穂を飾り、見返しに足利尊氏の鎧姿を合わせている(尊氏の山車人形は盛岡地域では初)。


秋田県秋田市の曳山「稲村ヶ崎」

(他流の新田義貞の山車)

 「鎌倉攻め」とタイトルがつきがちな稲村ヶ崎の場面は、竜神を召喚する幻想的な構想で再現されたこともあった(主に青森県の山車やねぶた)。八戸山車では海に投じられる刀を船並の大きさに作って山車の真ん中に豪快に飾った例もあるし、現れた龍神に義貞が合掌している構図もあった。写真は秋田県の土崎港曳山祭りの山車で、北条高時が義貞と竜神にヤラレている。竜神はこのような竜そのものである場合と、老神すなわち人の形で作られる場合とがある(後者は主に青森県)。
 一方で、従者が傍らにひざまずき義貞が刀を両手でささげている定型は県内はもとより東北・遠く北九州にまで共有されているモチーフで、他地域で目にするとほっとさせられる。二戸の平三山車や秋田の土崎曳山など人形のポーズが決まっているタイプの人形山車で、やや作例が少ない。
 藤島の場面は青森の野辺地町で一度山車になったようで、人形が見えづらいほど大量の矢を射掛けて義貞の最期を劇的に描いていた。この作品と二戸の平三山車の他は、藤島を場面取りした人形山車は無いようである。




 
(ページ内公開)

(稲村ケ崎) 沼宮内愛宕組 [借]  (両 刀) 一戸上町組

本項掲載:川口み組平成11年・盛岡一番組平成22年・沼宮内大町組平成12年・(他)秋田県秋田市土崎令和4年




文責・写真:山屋 賢一


山屋賢一 保管資料一覧
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新田義貞
稲村ヶ崎
盛岡観光協会・沼宮内愛宕組
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沼宮内愛宕組(白黒)
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青森県八戸市2例
青森県青森市
北九州山笠2例

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盛岡本組
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新田義貞
二刀
沼宮内大町組(本項)
一戸上町組
盛岡と組・一戸上町組(富沢)
沼宮内大町組(香代子)
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(音頭)


新田義貞 稲村ヶ崎 剣(つるぎ)(とう)ぜし 古戦場(こせんじょう)
稲村ヶ崎に 投ぜし剣 いざや鎌倉 汐開く
新田義貞 伝家
(でんか)の宝刀(ほうとう) 捧げ奉(まつ)らん 荒海に
世にも名高き 新田義貞 太刀を捨つるも 君のため
新田義貞 稲村ヶ崎の 怒涛
(なみ)を鎮めて 逆を討つ
狂う竜波
(たつなみ) たちまち凪(な)ぎて 天誅(てんちゅう)街道 花のみち
古来
(こらい)伝わる 稲村ヶ崎の 怒涛も鎮まる 御代(みよ)となる
足利源氏 おさえてならぶ 新田義貞 あげる旗



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