盛岡山車の演題【風流 俵藤太秀郷】

俵藤太百足退治

 



盛岡市み組平成26年

 俵藤太(たわらのとうた)の百足(むかで)退治の話は「御伽草子(おとぎぞうし)」等に見られるものなので、主人公の藤太を架空の人物ととらえる人も多いが、藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)という実在の武人である。源氏・平氏と並ぶ武家の名門「秀郷流藤原氏(ひでさとりゅう ふじわらし)」の祖であり、平安中期、平将門の乱を鎮めた武将として名高い。ちなみに平泉の奥州藤原氏は、この秀郷流藤原氏を源流としている。
 藤太百足退治の話は、近江国瀬田の唐橋(せたのからはし)を端から端までふさいで昼寝をする大蛇(だいじゃ)が居て…という件から始まる。実はこの大蛇は、竜宮の姫が化けたものであった。姫は、大蛇を恐れず橋を渡る武勇の者を待っていたのである。俵藤太が姫の期待通り、物怖じ一つせず大蛇を踏み据えて橋を渡ると、当夜、姫が藤太の許を訪れ、琵琶湖の竜神一族を脅かす大百足を退治てほしいと懇願する。
 願いを容れた藤太が一人三上山(みかみやま)に赴くと、山を七巻き半もする巨大な百足の化け物が、その足すべてに松明を掲げて現れた。藤太は固い殻で覆われた百足に矢を三度放ち、最後のひと矢で漸く射止めることができた。腕の良い藤太が三本とも全く同じ箇所に射て殻を破ったのだとも、妖怪の嫌う人の唾を吐きかけた矢だから効いたのだとも、神仏の加護によって矢が通ったのだともいう。百足を退治して竜神一族を救った藤太は、お礼に竜宮から釣鐘をもらって帰る。これが、のちに武蔵坊弁慶が比叡山まで引き摺り上げる園城寺(おんじょうじ 三井寺)の梵鐘である。

石鳥谷上若連平成15年

 盛岡山車の退治もの数ある中で、昆虫が扱われるのは土蜘蛛と、この百足のみである。大きく作られてあまり気持ちの良いものではないから、という事情が大きいように思う。私が確認している百足退治の山車は2件、逸話の有名度から考えると決して多くはない。石鳥谷の上若連(写真2枚目)は鎧姿の藤太にし、百足の頭は下から上へ向いている。百足の額がすでに射抜かれており、藤太は短刀でとどめを刺そうとしている。盛岡のみ組(写真1枚目)は鎧は着せず、藤太が重藤(しげとう)の大弓を手にし百足を射止めた瞬間を作った。ゆえに百足は山車の上方に這わせ、下部には橋を作った。2作いずれも、百足の色は赤系であった。
 戦前の絵紙に、橋の上に弓矢を手にした藤太・下には大蛇が寝ている、という趣向があり、沼宮内の古写真に実物と思しきものが見られる。物語の前段を作ったもので、大蛇は竜の姿で表現されたようである。
 み組は見返しに、盛岡藩祖南部利直に嫁いだ蒲生(がもう)家の姫「於武(おたけ)姫」を飾って『むかで姫』と題を付けた。姫は輿入れ道具として上記百足退治の折のやじりを持参したと伝えられ、死後その祟りゆえか、百足に関わる様々な怪事が起こったという。

 岩手県内では花巻の山車に比較的よく出てくる。乙姫様・琵琶湖の竜神を伴った、どちらかというとほのぼのした仕上げである。県外では青森の野辺地・秋田の土崎・山形の新庄などで実物を見たり、写真を見たりした。







文責・写真:山屋 賢一


(音頭)

世にも名高き 秀郷公は 伊吹山(いぶきやま)にて 旗を上げ
竜神助けた 俵の藤太 あやかし討ちて 名を上げる
民を悩ます 妖しき百足 とどめさしたる 俵藤太
(たわら とうた)
手弱
(たお)や乙姫 龍蛇に化けて 見込んだ公(きみ)の 肝試(きもだめ)
瀬田
(せた)の唐橋(からはし) あらわる百足 三矢(さんや)で射とめし 俵藤太
赤の百足に 向かいし藤太 恐れ怯
(ひる)まぬ 橋の上
七巻
(ななま)き余りの 百足を射留め 弓に長(た)けたる 勇ましさ
竜神一族 救いの一矢
(ひとや) 放つもののふ 三上(みかみ)


※南部流風流山車(盛岡山車)行事全事例へ

青森県八戸市青森県青森市 (参考)青森県八戸市・青森ねぶた『乙姫様と大百足』
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