加藤清正虎退治
派手な陣羽織に戦国武将ならではの変わり兜をかぶった清正の山車人形は、数ある武者の飾り物の中でもとりわけ見栄えがし華やかである。兜は「長烏帽子形(ながえぼしなり)」という縦に長くすらりとしたもので、実は自身の背の低さをカムフラージュするために使ったらしく、後世我々が清正を思い浮かべるときのトレードマークとなっている。顔には大変立派な顎鬚が生えている。家紋は「蛇の目(じゃのめ)」で、要するに枠の太い丸印であるが、兜や陣羽織に入るほか、傍らの幟(のぼり)に入ることもある。このように、山車に上がる清正のイメージは細部にいたって固定された感があり、これらのイメージを崩さず作っただけで相当に個性的で面白い山車になる。
石鳥谷の上若連の加藤清正(平成13年)も周辺域で高く評価され、その後数年にわたって、盛岡山車伝承各所で虎を作るのが流行った。上若連では虎の顎の部分の白い毛並みを張子に毛を植えて表現したので、以降張子の上から毛布のようなものをかぶせて虎の毛並みを作る手法がよく用いられるようになった(一戸では西法寺組・本組、沼宮内ではの組、盛岡では前潟のわ組、川口では井組が採用)。虎は全身を作るべきという意見と、上半身のみですっきりと仕上げるべきとの見解があるが、いずれ迫力のある仕上がりとなれば魅力的で楽しい。虎は動物の作り物では一番難しいモチーフといわれてきたが、近年各地で切磋琢磨が繰り返され、レベルが急速に向上している。
最近めっきり作られなくなったが、加藤清正には虎退治のほかにもうひとつ、山車にあがる場面がある。
虎を何匹も舞台に上げる趣向は岩手では花巻、青森で八戸、山形では新庄などに見られ、新庄では虎に食べられる小姓を描いてストーリー性を出した。虎の山車は彩りも良く、小道具につける緑色の笹竹と美しいコントラストを作る。清正の四方に虎を配した八戸の一作は、武断派を追い込む石田三成ら文治派を虎に喩えた趣向という。
(音頭)
見るも勇まし 異国(いこく)の空に 名を轟(とどろ)かす 鬼将軍
崩れし石垣 桃山城に 今ぞ咲く花 義の香り
虎退治の場合は、単に『加藤清正』と題がつくことも多い。なお、私が初めて見た同趣向の題は『清正猛虎仇討ち』(昭和60年、石鳥谷町)である。
豊臣秀吉子飼いの武将として有名な加藤清正(かとう きよまさ)は、唐入り(からいり:朝鮮出兵のこと)に出征したとき、現地で猛虎の群れと遭遇し、馬や可愛がっていた小姓の一人を食い殺されてしまった。烈火のごとく怒った清正は一軍を率いて虎の群れを襲撃し、苦闘の末に小姓の仇を討った。この壮挙は日本軍の士気を著しく高めた他、人食い虎に悩まされていた朝鮮の人々も大いに喜ばせた。秀吉の居る名護屋城(なごやじょう)には千畳敷の虎の皮・強精剤の虎の肝が山のように届き、清正の武名は日本中に轟いた。清正は、十文字槍の片側が欠け落ちている片鎌槍(かたくらやり/かたかまやり)を愛用していたが、この「片鎌」は退治の際に虎に噛み取られた名残だという。
舞台の向かって右側に倒れかかった虎、左に槍を両手で構えた清正を作る。見てきた中では、虎を一匹丸ごとひっくり返した沼宮内の作(平成11年、写真2)が白眉で、これを超える感動にはまだ出会えていない。盛岡市内では長年、清正や和藤内に比べて虎の人形を小さく作ってしまう傾向が見られたが、沼宮内の新町組から盛岡な組へ出張した加藤清正の虎(平成5年、写真1)によってこの感覚が改まり、以来清正の山車の主たる魅力が清正ではなく虎に置かれるようになった。新町組の虎はこの後、一戸の西法寺組にも学ばれている(平成7年・平成14年)。
二戸の平三山車や青森県の山車では、清正が馬に乗って虎と戦う構図がよく出る。盛岡型では岩手町川口の下町山道組がこの馬上の虎退治を初めて実現し、以降盛岡の城西組・小鳥谷のに組・一戸の西法寺組と作例が続いている。下町山道組はこの他にも従来の定型を破って刀を手にした独特の虎退治を出しており、盛岡山車圏内では他に例が無い。平成終盤には他に、清正が槍を片手で使う新構図が盛岡や石鳥谷で試みられた(三番組:写真3、上和町組)。
朝鮮出兵のとき、日本に残って下知をしていた秀吉の側近たちと清正とは大変折り合いが悪く、特に石田三成(いしだ みつなり:後に秀吉の遺臣を率いて家康に立ち向かった忠臣)が秀吉のそばでさんざん清正の悪口を言ったため、朝鮮から帰った清正は秀吉にひどく嫌われ蟄居(謹慎処分)となった。時に京・大坂を大地震が襲い、清正は矢も盾もたまらず謹慎を破って桃山の伏見城に秀吉を見舞った。命を顧みず主君を案じた清正の忠義に心を打たれた秀吉は、目を覚まして三成の讒言を退けたという。
この話は『地震加藤(じしんかとう)』といい、僅かな例だが盛岡山車に出たことがある。豪華な伏見城の甍(いらか)を背に鎧姿の清正が槍を携え、立っていたり跪いたりしている構図であった。陣羽織の鎧姿ではあるが、秀吉に謁見する場面なので脱帽の体を取り、トレードマークの兜はかぶせない。平成に入ってからは、沼宮内で久々に山車になった。
二戸まつりの古い写真に、船に乗った加藤清正の山車が映っている。これは朝鮮出兵に旅立つ場面の山車だそうで、船端には清正の旗印である南無妙法蓮華経と大書した幟が立っている。盛岡では大正期・沼宮内でも戦前に船を欠いた同様の構図が見られ、敬礼のような清正の姿勢はいかにも軍国主義下の山車である。
清正は東北に限らず更新制人形山車伝承地域では広く見られる題目であり、虎の登場する定番となっている。御神体として作り変えない山車人形にも、甲冑を着て槍を持った清正の姿を採用している例がある(関東・北海道)。兜や槍などイメージを差別化しやすいモチーフが多いためであろう。
地震加藤は他地域でもほとんど出てこないが、秋田の角館で、とぼけた表情の秀吉の後ろで陣幕をたくし上げ鬼のような形相ではせ参じる清正の山車を見た。
文責:山屋 賢一/写真:山屋圭子・山屋賢一
(ページ内公開)
【馬 上】
【その他】
本項掲載:盛岡市な組H5・沼宮内新町組H11・盛岡市三番組H25・沼宮内の組H28(地震加藤)
・岩手県二戸市の「平三山車」(馬上虎狩り ※ポスター引用)・岩手県花巻市(朝鮮出陣)
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閲覧できる写真
絵紙
清正虎退治
石鳥谷下組
沼宮内新町組@(本項A)A
石鳥谷上若連
一戸西法寺組
沼宮内の組
二戸福岡五日町
川口井組
一戸上町組
沼宮内ろ組
石鳥谷上和町組盛岡な組@(本項@)A
盛岡二番組@A
沼宮内新町組
一戸本組・二戸福岡は組盛岡な組(色刷)
石鳥谷上若連
一戸西法寺組
一戸上町組・小鳥谷野中若者連(富沢)
沼宮内新町組@A(手拭)
石鳥谷上和町組(手拭)
盛岡な組
盛岡二番組
盛岡橘産業(富沢)
馬上虎狩
川口下町山道組
盛岡城西組
一戸小鳥谷に組
一戸西法寺組
二戸平三山車数例(本項D)
青森三戸二戸福岡長嶺ほか
北上黒沢尻
青森三戸川口下町山道組(香代子)
盛岡城西組
一戸小鳥谷に組
一戸西法寺組
その他
変型虎退治川口下町山道組
盛岡三番組(本項B)
石鳥谷上和町組
川口下町山道組(色刷)
盛岡三番組(色刷り)
石鳥谷上和町組(手拭)
石鳥谷秋友会(色刷り)
地震加藤
沼宮内の組(本項C)
盛岡一番組
盛岡か組
秋田角館沼宮内の組
沼宮内新町組(富沢)
盛岡一番組
仰ぎ見る清正
(花巻:本項D)
盛岡長町
沼宮内大町組カ
二戸川又
文禄(ぶんろく)元年 異国の陣に 片鎌槍(かたくらやり)の 虎退治
文禄元年 明国(みんこく)先陣 猛虎(もうこ)に及ぶ 清正(きよまさ)公
時は文禄 異国の砦(とりで) 部下の仇(あだ)討ち 虎退治
猛(たけ)き虎をも 朝日の槍に 突くや御国(みくに)の 勝つ戦(いくさ)
雷名(らいめい)高き 清正公が 行く手を阻(はば)む 虎退治
響く音声(おんじょう) 竹林関(ちくりんぜき)に 猛虎打倒と 高らかに
咆(たけ)る大虎(おおとら) 閃(ひらめ)く刃(やいば) 挑む清正 一騎討(いっきうち)
行く手遮(さえぎ)り 牙(きば)剥く猛虎 見事しとめた 清正公
今に名高き 七人槍の 加藤清正 虎退治
やいば噛み切る 猛虎の牙に 気合い一撃 討ち果たす
虎に清正 武勇の誉れ 今も轟く 五大洲(ごだいしゅう)
主に尽くせる 忠義の亀鑑(かがみ) 地震加藤と 幾世(いくよ)まで
烏帽子(えぼし)兜に 片鎌槍で 清正先陣 賎ヶ岳(しずがたけ)
加藤清正 異国(ことくに)までも 残す御国の 武のちから
勇武の誉れ 韓八道(かんはちどう)に その名も高き 清正公
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