盛岡山車の演題【風流 加藤清正虎退治】
 

加藤清正虎退治

 



 単に『加藤清正』と題がつくことも多い。なお、私が初めて見た同趣向の題は『清正猛虎仇討ち』(昭和60年、石鳥谷町)であった。
 豊臣秀吉子飼いの武将として有名な加藤清正(かとう きよまさ)は、唐入り(からいり:朝鮮出兵のこと)で朝鮮半島に出征したとき、現地で猛虎の群れと遭遇し、可愛がっていた小姓の一人を食い殺されてしまった。清正は烈火のごとく怒って虎の群れを襲撃し、苦闘の末に見事仇を討ったという。この壮挙は日本兵の士気を著しく高めたにとどまらず、人食い虎に悩まされていた朝鮮の人々をも大いに喜ばせた。秀吉の居る名護屋城(なごやじょう)には千畳敷の虎の皮と強精剤の虎の肝が山のように届き、清正虎退治の武名は日本中に轟いたのである。清正は、十文字槍の片側がかけ落ちている片鎌槍(かたくらやり)を愛用していたが、これは虎退治のとき猛虎が片側を噛み砕いてしまった名残だという。

盛岡市本宮な組平成5年

沼宮内新町組平成11年

 派手な陣羽織に戦国武将ならではの変わり兜をかぶった清正の人形は、数ある武者の飾り物の中でもとりわけ見栄えがして華やかである。兜は「長烏帽子形(ながえぼしなり)」という縦に長くすらりとしたもので、本人は自分の背の低さをカムフラージュするために使ったらしいが、後世我々が清正を思い浮かべるときのトレードマークとなっている。顔には大変立派な顎鬚が生えている。家紋は「蛇の目(じゃのめ)」で、要するに枠の太い丸印であるが、兜や陣羽織に入るほか、傍らの幟(のぼり)に入ることもある。このように、山車に上がる清正のイメージは細部にいたって固定された感があり、これらのイメージを崩さず作っただけで相当に個性的で面白い山車になる。
 舞台の向かって右側に倒れかかった虎、左に槍を両手で構えた清正を作る。私が見てきた中では、虎を一匹丸ごとひっくり返した沼宮内の作(平成11年、写真2)が白眉であり、これを超える感動には未だ出会っていない。盛岡市内では長年、清正や和藤内に比べて虎の人形を小さく作ってしまう傾向が見られたが、沼宮内の新町組から盛岡な組へ出張した加藤清正の虎(平成5年、写真1)によってこの感覚が改まり、加藤清正の主たる魅力が清正ではなく虎に置かれるようになった。新町組の虎はこの後、一戸の西法寺組にも学ばれている(平成7年・平成14年)

「槍を片手で」盛岡三番組平成25年

 石鳥谷の上若連の加藤清正(平成13年)も周辺域で高く評価され、その後数年にわたって、盛岡山車伝承各所で虎を作るのが流行った。上若連では虎の顎の部分の白い毛並みを張子に毛を植えて表現したので、以降張子の上から毛布のようなものをかぶせて虎の毛並みを作る手法がよく用いられるようになった(平成19年時点で、一戸の西法寺組・沼宮内のの組・盛岡市前潟のわ組・川口の井組が採用)。虎は全身を作るべきという意見と、上半身のみですっきりと仕上げるべきとの見解があるが、いずれ迫力のある仕上がりとなれば魅力的で楽しい。虎は動物の作り物では一番難しいモチーフといわれてきたが、近年各地で切磋琢磨が繰り返され、レベルが急速に向上している。
 二戸の平三山車や青森県の山車では、清正が馬に乗って虎と戦う構図がよく出る。岩手町川口の下町山道組と盛岡の城西組が、このような馬上の虎退治を盛岡山車でも実現した。下町山道組はこの他にも従来の定型を破って刀を手にした独特の虎退治を山車にしており、盛岡山車圏内では他に例が無い。平成の終盤には、清正が槍を片手で使う新構図が盛岡や石鳥谷で試みられた。


「地震加藤」沼宮内の組平成28年

 最近めっきり作られなくなったが、加藤清正には虎退治のほかにもうひとつ、山車にあがる場面がある。
 朝鮮出兵のとき、日本に残って下知をしていた秀吉の側近たちと清正とは大変折り合いが悪く、特に石田三成(いしだ みつなり:後に秀吉の遺臣を率いて家康に立ち向かった忠臣)が秀吉のそばでさんざん清正の悪口を言ったため、朝鮮から帰った清正は秀吉にひどく嫌われ蟄居(謹慎処分)となった。時に京・大坂を大地震が襲う(慶長伏見地震)。清正は矢も盾もたまらず、謹慎を破って桃山の伏見城に秀吉を見舞った。命を顧みず主君を案じる清正の忠義に心を打たれた秀吉は、目を覚まして三成の讒言を退けたという。
 この話は『地震加藤(じしんかとう)』といい、僅かな例だが盛岡山車に採り上げられたことがある。豪華な伏見城の甍(いらか)を背にして、鎧姿の清正が槍を携え仁王立ちしていたり、跪いたりしている構図であった。陣羽織の鎧姿ではあるが、秀吉に謁見する場面なので脱帽の体を取り、トレードマークの兜はかぶせない。

 二戸まつりの古い写真に船に乗った加藤清正の山車が映っていて、これは朝鮮出兵に旅立つ場面を表現したものではないかといわれている。船端には清正の旗印である南無妙法蓮華経と大書した幟が立っている。盛岡では大正期・沼宮内でも戦前に船を欠いた同様の構図が見られ、敬礼のような清正の姿勢はいかにも軍国主義の時代らしい。

 

「馬上虎狩」二戸まつりの平三山車
【他地域】

 虎を何匹も舞台に上げる趣向は岩手では花巻、青森で八戸、山形では新庄などに見られ、新庄では虎に食べられる小姓を描いてストーリー性を出した。虎の山車は彩りも良く、小道具につける緑色の笹竹と美しいコントラストを作る。清正の四方に虎を配した八戸の一作は、武断派を追い込む石田三成ら文治派を虎に喩えた趣向という。

 清正は東北に限らず更新制人形山車伝承地域では広く見られる題目であり、虎の登場する定番となっている。御神体として作り変えない山車人形にも、甲冑を着て槍を持った清正の姿を採用している例がある(関東・北海道)。兜や槍などイメージを差別化しやすいモチーフが多いためであろう。

 地震加藤は他地域でもほとんど出てこないが、秋田の角館で、とぼけた表情の秀吉の後ろで陣幕をたくし上げ鬼のような形相ではせ参じる清正の山車を見た。

「船上の清正」岩手県花巻市



文責・写真:山屋 賢一



 
(ページ内公開)

一戸祭@  一戸祭A  川口祭  沼宮内祭@  石鳥谷祭@  盛岡祭  石鳥谷祭A  沼宮内祭@

本項掲載:盛岡市な組H5・沼宮内新町組H11・盛岡市三番組H25・沼宮内の組H28(地震加藤)
・岩手県二戸市の「平三山車」(馬上虎狩り ※ポスター引用)・岩手県花巻市(朝鮮出陣)


山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
清正虎退治 石鳥谷下組
沼宮内新町組@(本項A)A
石鳥谷上若連
一戸西法寺組
沼宮内の組
二戸福岡五日町
川口井組
一戸上町組
沼宮内ろ組
石鳥谷上和町組
盛岡な組(本項@)

盛岡二番組@A
沼宮内新町組
一戸本組・二戸福岡は組
盛岡な組(色刷り)
石鳥谷上若連
一戸西法寺組
一戸上町組・小鳥谷野中若者連(富沢)
沼宮内新町組@A(手拭)
石鳥谷上和町組(手拭)

盛岡二番組
盛岡橘産業(富沢)
馬上虎狩 川口下町山道組
盛岡城西組

二戸平三山車数例(本項D)
青森三戸
二戸福岡長嶺ほか
北上黒沢尻
青森三戸
川口下町山道組(香代子)
盛岡城西組
その他
変型虎退治
川口下町山道組
盛岡三番組(本項B)
石鳥谷上和町組
川口下町山道組(色刷)
盛岡三番組(色刷り)
石鳥谷上和町組(手拭)
石鳥谷秋友会(色刷り)
地震加藤 沼宮内の組(本項C) 盛岡一番組
盛岡か組
秋田角館
沼宮内の組

沼宮内新町組(富沢)
盛岡一番組
仰ぎ見る清正 (花巻:本項D) 盛岡長町
沼宮内大町組カ
二戸川又
ご希望の方は sutekinaomaturi@outlook.comへ

(音頭)

見るも勇まし 異国(いこく)の空に 名を轟(とどろ)かす 鬼将軍
文禄
(ぶんろく)元年 異国の陣に 片鎌槍(かたくらやり)の 虎退治
文禄元年 明国
(みんこく)先陣 猛虎(もうこ)に及ぶ 清正(きよまさ)
時は文禄 異国の砦
(とりで) 部下の仇(あだ)討ち 虎退治
(たけ)き虎をも 朝日の槍に 突くや御国(みくに)の 勝つ戦(いくさ)
雷名
(らいめい)高き 清正公が 行く手を阻(はば)む 虎退治
響く音声
(おんじょう) 竹林関(ちくりんぜき)に 猛虎打倒と 高らかに
(たけ)る大虎(おおとら) 閃(ひらめ)く刃(やいば) 挑む清正 一騎討(いっきうち)
行く手遮
(さえぎ)り 牙(きば)剥く猛虎 見事しとめた 清正公
今に名高き 七人槍の 加藤清正 虎退治
やいば噛み切る 猛虎の牙に 気合い一撃 討ち果たす
虎に清正 武勇の誉れ 今も轟く 五大洲
(ごだいしゅう)

※地震加藤

崩れし石垣 桃山城に 今ぞ咲く花 義の香り
主に尽くせる 忠義の亀鑑
(かがみ) 地震加藤と 幾世(いくよ)まで

烏帽子
(えぼし)兜に 片鎌槍で 清正先陣 賎ヶ岳(しずがたけ)
加藤清正 異国
(ことくに)までも 残す御国の 武のちから
勇武の誉れ 韓八道
(かんはちどう)に その名も高き 清正公





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