勧進帳(安宅の関)
盛岡山車に網羅される源義経の一代記のひとつで、歌舞伎狂言における義経ものの代表曲である。『安宅』『安宅の関』と題がつくこともあるが、おおむね勧進帳で通っている。 義経一行は「変装」山伏であるから、もとより勧進帳などあるはずがない。武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい:義経の家来)はおもむろに白紙の巻物を取り出すと、これをさも勧進帳であるかのように澱みなく読み上げて見せた。なんとこのようなときに備え、勧進帳をまるまる暗記していたのである。途中関守の富樫(とがし)が中を覗き込もうとするが、弁慶は紙一重でこれをかわす。 絶体絶命の危機、弁慶はこの苦境をいかにして乗り切ったか。「邪魔者め、お前が義経なぞに似ているせいで、関所を通れぬとは口惜しいことこの上ない。金剛杖(こんごうじょう:鉄の芯が入った山伏の杖)で殴り殺してやるから覚悟しろ。」と、強力に窶した義経を怒鳴りつけるのである。のみにとどまらず、そのまま義経を蹴り倒し、手にした杖でさんざんに打ち据えてしまった。 盛岡山車の世界において弁慶といえば、五條の橋の僧兵装束と並んで勧進帳の山伏姿が定番である。黒地に金糸で梵字(ぼんじ)を縫い取り、その下に黒・緑・茶の三色で彩られた弁慶格子(べんけいごうし)を纏う。シックな色彩に錦の玉袈裟(たまげさ)がアクセントを加え、重厚な中にも高級感漂う華やかな装束である。背面に展開する金地の松羽目(まつばめ)が、黒い弁慶の衣装と好対照を作って実に美しい。定番の背景には歌舞伎舞台を写したこの松羽目と、実際の関所を再現する格子・陣幕がある。 物語性を重視する構図は2つで、まずは弁慶が巻物を読んでいる姿である。1体飾りとしたものが古くは盛岡の紺屋町・昭和の末以降は沼宮内や石鳥谷、日詰で出ている。うち石鳥谷の中組が出した巻物読み(平成6年)は、弁慶が隈取を取って車鬢をつけている異色の風貌で、着物も黒でなく茶色であった。盛岡の三番組や観光協会、平成に入ってからは石鳥谷の上若連が、弁慶・富樫の2体飾りで巻物読みの緊迫の場面を飾った(伝統型)。富樫の着物は江戸時代の大名が着る大紋装束で、浅黄色を地に薄緑や鼠色で細かい柄が入る爽やかなものである。平成の末から令和にかけて、富樫を伴う2体の勧進帳にも様々な構図が工夫されるようになった(写真4)。 このほかにも、勧進帳のさまざまな場面を切り抜いた山車が出ている。いずれも山伏姿の弁慶1体飾りで、「山伏姿でありさえすれば勧進帳」と認知され得るところに深い定着度が現れている。盛岡の城西組は、この定番の弁慶の姿を船に乗せて『船弁慶(ふなべんけい)』を構想したが、これは他地域の同名演題と比較してみても、盛岡山車の嗜好を非常によく映した例といえる。 (他の地域の「勧進帳」の山車) 越すに越されぬ 安宅(あたか)の関に 命かけたる 勧進帳(かんじんちょう)
頼朝に追われ都落ちのさなかの義経一行は、山伏に化けて加賀の安宅(あたか)の新関(関所)を通ろうとする。関守は怪しげな山伏一行を疑い、「東大寺大仏再建の勧進帳(かんじんちょう)」を証拠に見せろと詰め寄った。「勧進」とは寄付集めのこと。義経一行は源平合戦で燃えてしまった南都(奈良)の寺々再建のための、寄付集めの山伏に変装している。勧進帳は、寄進者に述べる寄付集めの目的や寄付に応じた人の名を記す巻物である。
その後も弁慶は富樫との山伏問答を完璧にこなし、疑いを晴らす。ところが、やっと無事通れるかというときに、関守の一人が強力(ごうりき:荷物持ち)が「不自然に小柄だ」「義経に顔が似ている」と見咎めた。
強力が義経ならば、こんな仕打ちができるはずはない。弁慶の奇行は強力が義経でないことを必死で証明し、活路を見出す苦肉の策である。それは後で無礼を詫びて、義経の御前で切腹する覚悟のもとでの奇行であった。「…そこまでしても、主君を守り抜きたいのか…」強力を叩く弁慶の姿に本物の忠節を見た富樫は心のうちに涙を流し、全てを見抜いた上で義経一行を見逃すことにした。これもまた頼朝への詰め腹を切る覚悟の上での見逃しであって、富樫はまさに命を懸けて義経主従の義に報いたのである。
勧進帳の山車の主な場面取りは3つあるが、弁慶が主従を追って飛び跳ねながら華麗に花道へ下がっていく幕切れの「飛び六方(とびろっぽう)」が一番多く作られている。六方とは、東・西・南・北・天地・陰陽に気迫を放ちながら役者が幕内へ引っ込んでいく有様をさす。静止図の「見得」ではなく躍動する姿を切り取った構図であり、開いた片手をダイナミックに前に突き出し、金剛杖を小脇に抱えて片足立ちで跳ね進む踊るような雰囲気を出したいところである。景気よく跳ね上がった片足はなかなか再現が難しいが、沼宮内のの組がよく工夫し、人形丸ごと盆から飛び出す奇作も披露した。北は一戸から南は石鳥谷まで、盛岡山車伝承域のほぼ全てで作られている定番の構図である。
主君を金剛杖で打ち据える「杖折檻(つえせっかん)」の場面は昭和53年に盛岡の厨川や組が考案、平成に入って石鳥谷の上和町組・盛岡観光協会が製作している。義経は濃い紫のあでやかな強力姿で、黒い笠をかぶって顔を隠している。
巻物読みは青森ねぶた・角館飾山、岩手県内では平三山車・花巻山車などで製作歴があるが、いずれも定番というほど頻繁には登場しない。関東方面にも、巻物を読む山伏で弁慶をあらわすご神体山車人形が何体か見られるようだ。杖折檻は歌舞伎から離れて実話に近いスタイルで構想されるものが多く、また盛岡山車の定番である飛び六法の勧進帳は、宮城県登米市の製作例を除いて山車人形に作られる例はほぼ皆無である。
山車ではないが、宮城県北部から岩手県南部に伝承する民俗芸能「神楽」のなかに、一演目として勧進帳を演じる団体がいくつかある。講談調の台詞回しを活かした非常に泣ける一幕であった。
文責:山屋 賢一 / 写真:山屋幸久・山屋賢一
(ページ内公開)
西 組 黒沢尻十二区 上若連 下町山道組 大町組 (他)宮城登米
【富樫入】
【杖折檻】
【その他】
本項掲載:盛岡市な組H5・沼宮内新町組H11・盛岡市三番組H25・沼宮内の組H28(地震加藤)
・岩手県二戸市の「平三山車」(馬上虎狩り ※ポスター引用)・岩手県花巻市(朝鮮出陣)
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絵紙
六方
日詰橋本組@
沼宮内の組@AB
盛岡よ組(本項3枚目)
盛岡の組・日詰橋本組A
日詰一番組@AB
日詰上組
石鳥谷上和町組日詰一番組
石鳥谷上和町組
盛岡の組
盛岡い組
盛岡穀町
一戸西法寺組
二戸堀野東組盛岡よ組
盛岡の組(色刷)
日詰一番組@A
石鳥谷上和町組(手拭)
一戸西法寺組(国広)
盛岡い組(国広)
盛岡穀町(国広)
盛岡と組(国広)
石鳥谷上若連(国広)
巻物
沼宮内の組(本項1枚目)
石鳥谷中組
日詰上組
紫波町大巻山車
石鳥谷上若連(本項4枚目)盛岡観光協会
盛岡三番組
沼宮内の組
盛岡肴町盛岡観光協会(富沢:色刷)
石鳥谷上若連(手拭)
盛岡三番組(富沢)
盛岡よ組
杖折檻
石鳥谷上和町組(本項2枚目)
盛岡観光協会・日詰一番組
一戸西法寺組盛岡や組
盛岡観光協会(圭)
一戸西法寺組
盛岡や組(富沢)
その他
沼宮内の組
石鳥谷中組
鎌倉殿に 追わるる行方 富樫(とがし)が守る 安宅関(あたかぜき)
智恵の一巻 勧進帳を 天も響けと 読み上ぐる
主君打ち据え 咄嗟(とっさ)の機略 危難救いし 武蔵坊(むさしぼう)
智略・忠誠 主従のきずな 固き関所の 扉(と)をひらく
警固(まもり)きびしき 安宅の関に 誉れを残す 武蔵坊
警護(まもり)きびしき 安宅を後に 弁慶悠々 六方(ろっぽ)踏む
主と関所を 守るが為の 弁慶富樫の 名問答(めいもんどう)
成田屋十八番(なりたや おはこ)の 勧進帳が 江戸期歌舞伎の みち拓く
主従安宅の 関越え北へ 落ちて奥州 平泉
つらい逢瀬(おうせ)の 人目の関を 通す富樫の 男伊達
旅の衣(ころも)に 情けの安宅 関の富樫が 袖ぬらす
主従おとして 飛び去り六方 陸奥(むつ)への無事に 祈りこめ
思慮ある才知で 難関逃れ あげる弁慶の 金剛杖(こんごうじょう)
命かけたる 勧進帳で 解けて弁慶 六方踏む
虎口(ここう)逃れて 六方も軽く 見送る富樫が 義の情け
知恵の弁慶 富樫が情け 安宅を越えて 奥の道
弁慶富樫の 絵巻を結ぶ 躍る六方の 花道を
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