青森県上北郡東北町上北 高山稲荷神社例大祭(8月第4木・金・土・日曜日)

青森県東北町 上北町秋祭り

 

 

 上北町が平成17年に東北町と合併し、上北町最大のイベントであった秋祭りも「東北町かみきた秋祭り」と改称された。上北町駅を降り立つと、旅人を迎える大弾幕に祭りの案内がされている。続く駅前通りには綺麗に提灯が飾られ、路地裏に入ってもちらほらと飾りが見える。「お祭りに来たんだ」と、毎度のことながら嬉しくなる。提灯の下の部分にビニールテープで房をつけたり、提灯の脇に軒花や藤の花を吊るしているのが、このあたりの特徴なようだ。

道忠中納言(手前、栄町)・道成寺(奥、新山)

 8月の最終週は一戸まつりなど重要な行事が控えているため、本祭見物に日程を合わせるのが難しかった。だから、盛大に行われるらしい前夜祭の片鱗を見て、上北の山車の何たるかを少しでも探ってみることにした。各種案内に目を通すと、午後2時半から神社へ参拝、4時に役場前に山車が集結…とあり、平日の木曜日でありながら午後のかなり早い段階で山車が動いているのがわかる。これは良いと浮き足立って見に行ったが、もちろんこれには裏があった。

 高台にある上北の稲荷神社で「参拝」を待つ。個人的なイメージでは、山車やお通りに付く郷土芸能が神社前に集まり、音頭上げのひとつも上げていくものと思っていた。が、実際は各山車組の顔役2,3人が提灯を持って集まるだけで、山車も芸能もまったく神社に姿を見せない。お祭りだというのに、異常なまでに町は静かで、人影がなかった。

 神社の石段を降りて役場へ向かうとき、私はほとんど人生で初めての光景を目の当たりにした。山車が無音でトラックに引きずられている。ねぶたではこのような光景は日常茶飯事だが、山車がこのような引きずられ方をしているのははじめてだ。というよりも、自分の意識の中で山車とねぶたを分けていた境界線が、この光景で見事に打ち崩されてしまった。てっきり役場に集合するとき隊列を組み、お囃子を伴いながら集まってくると思っていた山車が、無音で続々と役場前に並べられていく。運行ではなく、それは輸送と呼ぶべきものであった。どうやら前夜祭の中のお囃子競演会まで、山車は一言も発しないらしい。たとえば八戸の前夜祭に引き比べてみても、これはすごく独特である。

 上北町の山車はやはり平成15年の規制を受け、自作に転向していた。使われている人形はひとつひとつ、人体に比べて一回り小さい。また、何よりの特徴が、見返しという概念がないことだ。「山車の背面に何か意味合いを持ったものを作る」という感覚が、上北ではほぼ完全に失われており、無意味に鬼面であったり、町の名であったり、絵であったりする。趣向を凝らしていても、それは八戸以南に見られるような統制の取れたものではなく、かなり奔放におのおの発想されているのである。

 山車の出来自体は、自作を始めて間もない地域と考えればかなり健闘している。八戸式の左右に開く回転台も広く使われ、上に持ち上がる飾りも多く使われている。人形にもそれぞれ適切に手をかけていて、無様なものはほとんどない。南町などは構想も大きく、かなり八戸に近似した仕上がりである。趣向には、地元伝承の「小川原湖伝説」が多く用いられ、自作開始のころはほぼこの伝説の山車で統一されていたようだ。竜神、坊主、怪物の鰐鮫が登場する幻想的な演題である。栄町の作った小川原湖の山車は、薄紫の竜が大きく立派で、他の地域では見られないような面白い仕上がりであった。平成17年は小川原湖以外に、浅井長政や弁慶の立往生、七夕などの趣向があった。

 上野龍組は、名前からわかるとおり八戸の十一日町龍組から見返しの人形を借り、組みなおして「蜘蛛女と孫悟空の戦い」を飾った。新山の道成寺も、なんとなくではあるが八戸塩町の人形の切り貼りに見える。そういう例であっても、やはり自分たちでしっかり手をかけて自前の山車にしているのは素晴らしいことだ。上北町以外でも、青森県内ではこのように自作に転向し、技術を磨いているところがあるのだろうか。

須佐之男尊大蛇退治(南町)

 前夜祭は祝詞を上げながらの「安全祈願祭」から始まる。はじめはあまり見る人もいなく、曳き子もいない山車がぽつねんと並んでいるだけであったが、夕闇が訪れるころには次第に観客も増え、クライマックスの囃子競演会では立派に人垣ができる。神楽競演会では小川原神楽がきりりとした舞を披露し、喝采を浴びた。YOSAKOIソーラン大会もおおいに盛り上がった(と思う)。山車は広場に集合したあとも若干の手直しが施され、少しずつその全様を見せていく。囃子競演の開始はもうすぐだ。

 山車の照明は各組によってさまざまで、単純に2方向ライトで照らしているところが結局は明るいのだが、ライトの色味を工夫したり、雷の部分にちかちかするライトを使っていたりする。雨除けのために太鼓にかけていたビニールシートを外し、囃し方も山車に乗り込んだ。山車の前にさらに大太鼓小太鼓を置いて、いよいよお囃子競演会である。

 競演会といっても、単に合同で囃すのではなく、きちんと順位が付く。皆優勝目指してがんばるので、気合が入った演技となる。子供たちの撥や声はしっかりとそろうし、早太鼓から歩み太鼓へ連動するときも、申し合わせてきちんと塗り替える。1団体目の囃子を聞いて帰ろうと思っていたのだが、いざ演奏が始まると、凍りついたようにその場から動けなくなった。楽曲は八戸とは違うもので、まあこれは大して聞き応えのするものでもないのだろうが、とにかく大太鼓の動きから少しも目を離せなかった。大太鼓はもろ肌を脱いださらし姿の若者が、バットのような撥を振って一人で叩くが、この動きがまさに「舞」と形容して足るものなのである。待ちの拍子のときは伸びやかに体を反らせ、輪を描くように大きく撥を回す。とにかく何団体見ても飽きず、ジーっと見つめてしまう。なんと美しいのだ、と思う。十和田でもやはり派手な大太鼓を見たが、二戸などで散々大太鼓のパフォーマンスに嫌気が刺しているので、「どうせお前が目立ちたいだけじゃねえか、バカ」と思っていた。しかし上北で見た太鼓は、個人の裁量ではなく伝統的にこういう叩き方なのだろう、何人もの人が引き継いできた実に純粋な華やかさがあった。たとえばそれは黒川さんさ踊りなどに通ずるような、曲線と大振りな動きが兼ね合わさった集団的な美しさである。決して一人ひとりのスタンドプレイではない。囃子は歩み、はや太鼓と、盛岡周辺で音頭上げのときに叩く「上げ太鼓」に非常によく似た囃子、3種である。残念ながらどのように使い分けるかはわからなかったが、ここまで来て盛岡のような拍子が聴けて、すごくうれしかった。お囃子競演会は、同時に山車を見せる場でもあるようで、仕掛けを開いたり、からくりを動かしたりしておのおの趣向を凝らす。竜の人形の支えを引き抜いて、中に人が入って暴れて見せる趣向、七夕の笹飾りが競りあがり、織姫が踊る趣向などがとりわけ喝采を浴びていた。

 正直な話をすると、私は上北に降り立ってから少なくとも神楽が始まるまでは、「来るんじゃなかった、こんなとこ」と思っていた。太鼓を乗せず準備中の山車は、変に空間が空いていたり、変にごみごみしていたりで見栄えがしなかった。でも囃子が聞けないのでは見に来た意味がない。そう思って最期まで見ていて、本当に良かった。囃子競演会のあとは、本当にここに来てよかったなあ、また来て見たいなあ、と思った。もしかするとこういう感覚は、実際に山車が街路を練っているときには得られなかったかもしれない。審査が進むにつれ囃子を披露する山車の前に群がる観衆の渦の中にいて、私は本当に幸せな気分で、何もかも忘れてお祭りに没頭できた。それまでの紆余曲折が、まるでこの感覚のための運命であるかのように。

 やはりお祭りは、実際に足を運び、満足するまで見るべきものなのである。(平成17年見物)

(整理)
 山車は最終金曜と最終日曜の、それぞれ午後2時から4時まで運行する。

※八戸流風流山車の行事集成

 

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