盛岡山車の演題【景清もの】
 

景清もの(景清・解脱・錣引)

 



「定型」一戸町西法寺組平成17年

 平家の侍大将の中で最も武勇に優れていたのは、悪七兵衛(あくしちびょうえ)の異名を持つ平景清(たいらのかげきよ:正しくは「藤原景清」)であった。悪七兵衛の「悪」は、「悪い」のではなく「強い」の意味である。景清は壇ノ浦で平家が滅亡した後の只一人の生き残りでもあり、源氏の世にあって最後まで平家再興を目指し、何度も頼朝暗殺を企てた不屈の武者である。一応「源氏の傍流」の徳川家が治世を敷いていた近世、庶民文学に現れる平家の景清は下々の政権批判の象徴であり、まさに憂さ晴らしの存在であった。
 景清は平家の再興を諦めた際に自ら両目をえぐってその執着を絶ったといい、目玉を清水寺に奉納した逸話から「目の神」として崇められた(古典落語「景清」はこの逸話が下敷き)。能では盲目となった景清が源平合戦のさまを荒々しく語るが、この中に出てくる「錣引き(しころびき)」という逸話が景清一世一代の晴れ舞台として、北東北では神楽の演目に稀に出てくる。本稿ではこれはひとまず置いて、盛岡山車の景清を紹介したい。



1、牢やぶり

 歌舞伎では、源氏に生け捕りにされ獄中で食を絶って自決した景清の逸話から、「牢破り」の筋を考案した。盛岡山車で断りを付けずにただ『景清』として山車を出す場合、この牢破りの場面を作ることがほとんどである。初演時の題は「大銀杏繁栄景清(おおいちょう さかえのかげきよ)」といって、この題を反映した音頭も見られた。

「六方」石鳥谷上若連昭和61年

 平家が遺した宝物のありかを探ろうと源氏の武者たちは捕らえた景清に拷問を繰り返すが、景清もさるもの、一向に口を割らない。あせった一人が景清の馴染みの女郎「阿古屋太夫(あこや たゆう)を牢屋の前に引き出して折檻すると、景清は卑怯な手段に怒って牢破りをする。或いはここまで混み入った筋書きでなく、牢番に嘲笑された景清が丸腰で牢を破って平家の意地を知らしめ、再び自縄自縛し戻るという筋もある。敗者の意地こそ、景清ものの根底に流れるメッセージである。
 「南無観世音(なむ、かんぜおん)」と一息唱えて土牢を蹴破った景清が、角格子(かくごうし)を振りかざして暴れまわる荒事(あらごと)の山車である。牢屋の格子を抱えて何らかの見得を切っている場面を組ごとに奔放に作っているが、盛岡観光協会の作例(平成13年)以降、格子を諸手で掲げる姿が一般化した。歌舞伎の小道具が飾りの無い角材であるため山車の格子もおおむねこれに倣っているが、土沢(花巻市東和町)の中下組が所々に臍(ホゾ)を付けた(描いた)のはだいぶ奏功した。端をギザギザに切った柱もたまにあり、盛岡の城西組は初回は片足を絡めて格子を抱かせ、二度目は横材の入った柱を2つ抱えた形で景清を暴れさせた。背景にも牢格子が組まれ、牢屋の前に仕立てられる。

「格子ごと」盛岡市城西組平成30年

 衣装の配色はさまざまだが、平成10年あたりから深い緑色を基調とする色彩が盛岡市内で一般化した。これとは別に、白を基調とした景清も石鳥谷・一戸・土沢とほうぼうで出ている。上着に牡丹の柄の刺繍が入るのが定例のようである。化粧は「半隈」といい、上半分が赤・下半分が青い隈取である。観客の目を引くこの青は牢につながれていた景清の疲弊をあらわすといい、淡い浅葱色にする組も深い青とする組もあった。鞠を頭に乗せたような髪も迫力があり、景清の鬘作りには高い技術を要するという。
 大多数が景清1体の趣向だが、稀に桜の枝を持った牢番がつく2体飾りもある。なお戦前期は、歌舞伎仕立てではなく裸人形の演題として牢破りの景清の山車が出ていたようだ。

【他地域】ねぶた(青森・大湊)では、歌舞伎風のものと伝説を活かした浴衣姿の牢破り双方が出た。どちらかといえば後者が主流で、田村麿賞の北村隆さんの作などが知られている。秋田の土崎港曳山祭りは裸人形を山車が多いので、景清牢破りも乱髪・上半身裸で演出されている。秋田では他に、角館まつりの飾山にも裃姿の畠山と組んだ2体飾りで景清の牢破りが何度か出た。


(ホームページ公開写真)

盛岡青山組  沼宮内大町組  南部火消し伝統保存会
二戸東組  石鳥谷中組  石鳥谷中組

秋田県秋田市  青森県青森市

本項掲載:一戸西法寺組H17・石鳥谷上若連S61・盛岡城西組H30



山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
1体格子上げ 盛岡観光協会・日詰一番組
一戸西法寺組(本項)
滝沢山車祭@AB
盛岡火消し保存会
石鳥谷西組@A
土沢中下組
沼宮内大町組
盛岡観光協会(圭)
一戸西法寺組
滝沢山車祭
沼宮内大町組
1体格子抱き 盛岡南大通二丁目・日詰橋本組
石鳥谷中組
盛岡城西組 盛岡城西組(圭)
石鳥谷中組(手拭)
六方 石鳥谷上若連(本項)
石鳥谷中組

秋田角館
石鳥谷中組(手拭)
1体自由型 石鳥谷中組
盛岡城西組(本項)
沼宮内大町組 石鳥谷中組(手拭)
盛岡城西組

沼宮内大町組
2体 盛岡青山組

盛岡わ組
盛岡青山組(富沢:色刷)

盛岡わ組(富沢)
裸人形
秋田県秋田市
青森県青森市(ねぶた)
盛岡新穀町寺ノ下 盛岡新穀町寺ノ下
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(音頭)

悪の偉名(いみょう)と 男の意気を 恋に捧げた 牢やぶり
(けた)を担いで 荒事見せて 大銀杏(おおいちょう)栄えの 景清が
平家の怨みか 男の性
(さが)か 景清意地の 牢破り
悪と名乗るも 善には強く 「忠義二つ」の かげ清き
握る格子
(こうし)に 平家の恨み 憎き源氏に 牙を剥く
あらぶる景清 大立ち回り 二代目成田屋 歌舞伎見得
牢を破って 大立ち回り 唸
(うな)り風きる 角柱(かくばしら)
堅き囚
(ひとや)を 破るももろく 恩と愛とに ひかされて
牢を蹴破り 悪七兵衛
(あくしちびょうえ) 勇みし有様(ありさま) 鬼神(きしん)かや
筋隈墨隈
(すじぐま すみぐま) 睨みをきかせ かぶく成田屋 四代目
成田屋受け継ぐ 荒事芸
(あらごとげい)は 初演景清 牢やぶり
出世
(しゅっせ)景清 娘の発願(ほつがん) 霊験(れいげん)活かす 物語り
妻と娘の 奏でる琴に 荒れて狂うや 景清が
剛勇景清 阿古屋
(あこや)の琴に 憎き悲しや 角格子(かくごうし)
剛毅すぐれし 景清いまに 見得切る花の 牢やぶり




「伝統型」岩手町川口下町山道組平成29年

2、解脱(釣鐘の景清)

 たいてい『釣鐘の景清』と題が付く。歌舞伎上演時の正式名称『鐘入解脱衣(かねいり げだつのきぬ)』、そこから『解脱(げだつ)景清』『景清解脱』、単に『景清』と題が付いたこともあった。なぜ景清が釣鐘に絡んでいるかについては奉納組によって諸説あり、そもそもの歌舞伎原題を探ってみても判然としない(上演のたびごとに解釈し直されるような印象がある)。説教節に語られる「景清が清水寺に忍び込んで源頼朝を討とうとした」エピソードに基づくものであろうか。

 平家の怨霊が清水寺に取り憑いて、鐘が鳴らなくなってしまった。畠山重忠が釣鐘に「小松内府(清盛の嫡男 平重盛)の息女の小袖」をかけると、衣の下から景清の亡霊が現れる。平家嫡流の息女が出家遁世したというので、平家再興の望みは全く絶えてしまった。復讐の怨念に燃えていた景清も遂に諦め、俗世の一切の煩悩から逃れて解脱する。
 解脱とは、仏の悟りを開くことである。解脱に至る景清の心情が喜びなのか悲しみなのか悔しさなのか、そのあたりがちょっとわからない。そのため私は未だ、釣鐘の景清に込められた本来の意味を理解できないでいる。「自分を騙した女郎を鐘に閉じ込めて暴れている姿」ということで、鐘を抱えた姿を作った作品もあり、また鐘の上の景清が反戦・世界平和を呼びかけているというような現代的な解釈を加えた作品もあった。それだけ構図が先行しエピソードが置き去りになっている演題、ということだろうか。

 定型は、景清の怨霊が引き倒した鐘の上で小袖を纏って見得を切っている一体飾りである。釣鐘弁慶は鐘を引き摺りはするが乗ったりはしないので、この演題でしかこのような体勢は見られない。古くは盛岡のい組が張子の大釣鐘の上に人形を乗せ、奇抜さで話題を呼んだのだという。はじめは横向きに寝かせた大鐘の上に景清を乗せたので人形の位置が高くなったが、次第に竜頭(りゅうず:鐘の吊手)の部分を下げて鐘を斜めに取り付けスペースを稼ぎ、一般的な1体の演題とほぼ同じ位置に景清人形を据えられるようになった。い組は戦前戦後含め3回製作、他に石鳥谷町でも試行錯誤の末の名作がいくつか生まれた。

「立鐘乗」盛岡さ組平成17年

 平成に入ってからは盛岡のさ組が3度釣鐘の景清を作り、3度とも注目を浴びている。中でも、横倒しが常であった釣鐘を立て、通常の山車人形の高さに十分に達した釣鐘の上に景清人形を乗せた「戦後一番の高さ」の景清は圧巻であった。定型を守りつつも白を基調に斬新な色使いで衣装を仕立てた第一作は一戸祭りでも模倣され、釣鐘の上で立ったり座ったりする前代未聞の奇抜な趣向を見せた第三作は、広く見物客のブログ等に写真入りで紹介された。最も印象深い作品だと多くの観客が思った証であろう。この時の着物の柄は黒地に銀糸で北斗七星を刺繍したもので、舞台では景清が鐘に上がるとこの衣装に変わる。同様の構図に取り組んだ組もあり、竜頭を手前に倒して鐘の存在感を強調したり鱗紋の着物を鐘全体にかけたりと多々工夫が見られたが、いずれもさ組ほどの奇抜さは出せていない。

「抱え鐘」日詰橋本組平成12年

 同じく盛岡の城西組は「釣鐘を肩に担ぐ」という奇抜な構想を見事に山車の枠にはめた。釣鐘の頭の部分を立ち岩に貼り付けて、背後にある大きな釣鐘を観客の想像にゆだねる発想であった。衣装のデザインも現行で演じられる歌舞伎をよく参照し、茶色のどてらに悪七兵衛の「悪」を刺繍している。数年後に一戸の橋中組がこれを倣って製作を試みたが、こちらは釣鐘をまるごと作って、抱え上げずに引きずるような姿勢に作ったものである。釣鐘の緒の部分を太く強調し、構図にアクセントを加えた。
 牢破りの景清に比べて隈の青い筋が少しだけ増えているが、これはこの場面の景清が亡霊怨霊である事を示しているのだろうか。

【他地域】他地域ではほとんど出てこないが、山形の新庄で昭和後期によく作られた。大鐘の上で、卒塔婆を引き抜いた景清を暴れさせるのが定例であったようである。大湊ねぶた(青森県むつ市)では道成寺との折衷を意識した三角鱗紋の着物で「解脱景清」を構想している。角館の飾山に一度、城西組の構図そっくりの釣鐘景清が出たことがある。


(ホームページ公開写真)

盛岡さ組・一戸橋中組   石鳥谷上若連  十日市山車  
盛岡わ組  沼宮内の組  盛岡城西組  盛岡の組



本項掲載:岩手川口下町山道組H29・盛岡さ組H17・紫波日詰橋本組H12(盛岡城西組借上)



山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
定型 石鳥谷上若連@
沼宮内愛宕組
石鳥谷上若連A
川口下町山道組(本項)
盛岡の組
石鳥谷中組
盛岡さ組

盛岡い組@
盛岡い組A
一戸西法寺組
沼宮内新町組
盛岡山車推進会(富沢)
盛岡さ組
石鳥谷上若連
川口下町山道組
盛岡の組

一戸西法寺組(国広)

盛岡い組@
盛岡い組A(国広)
盛岡い組B(国広)
富沢押絵番付
立鐘乗 盛岡さ組@A(本項)
紫波町十日市
沼宮内の組
盛岡城西組
山形新庄
福岡博多
盛岡さ組@
盛岡さ組A
盛岡城西組
鐘引 盛岡城西組(本項)
一戸橋中組
盛岡わ組
秋田角館 盛岡城西組(圭)
一戸橋中組(圭:上記白黒)
盛岡わ組
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(音頭)

(あら)ぶる景清 薄衣(うすぎぬ)(かづ)く ゆかりの鐘に 歌舞伎見得
鐘にうらみは 数々あれど 鬼の景清 解脱
(げだつ)する
煩悩
(ぼんのう)解脱を 会得(えとく)のいまに 阿古屋(あこや)救える 鐘悲し
滅びし平家の 供養
(くよう)を説いて 印(いん)を結びて 鐘に憑く
放埓
(ほうらつ)景清 解脱のしるし 祓(はら)いし煩悩 鐘にとり
平家供養の 鐘の音あわれ 景清うつつ 清水寺
(しみずでら)
腕の力に 名を得し勇士 またも大鐘 引き止める
鐘を跨
(また)ぎし 荒若武者は 剛勇無双 歌舞伎見得
歌舞伎荒事 景清解脱 成田屋十八番の 不動見得
(ふどう みえ)
平家の宝刀 痣丸
(あざまる)失せて 邪淫(じゃいん)に堕ちにし 景清が
放埓景清 阿古屋を封じ 煩悩断ち切る 鍵と成す
鐘に封印 煩悩解脱 景清祈念の 国の夢
由縁
(ゆかり)の小袖 景清被き 平家供養の 鐘をきく




秋田県仙北市角館の「飾山」

3、錣引(壇ノ浦景清)

 景清の錣引は正しくは屋島合戦での逸話だが、能などでは舞台を壇ノ浦と設定しており、山車でも『壇ノ浦 景清錣引』と題をつけたことがある。
 平家一門は源義経の度重なる奇襲戦法に敗れ、どうしても義経一人を葬って、戦局を打開する必要があった。そこで平教経(たいらの のりつね)が平家一番の猛者、悪七兵衛景清を呼び寄せて、義経を討つよう命じる。景清は大薙刀(おお なぎなた)を抱え、浜縁を駆け巡って義経を探し回り、遂にこれぞという武将の姿を認めて勝負を持ちかけた。その武将は義経ではなく坂東武者の三保の屋(みおのや)であったのだが、三保の屋は逃げるところを呼び止められた恥をすすぐべく景清の勝負を受け、激しい一騎打ちとなる。戦況不利と見た三保の屋は隙を見て逃れようとしたが、景清はその兜の後ろの”しころ(錣)”をがっちりと掴んで離さない。両者錣をはさんでの引き合いとなり、ついには頑丈に作られているはずの錣が千切れてしまう。両者互いに倒れこみ、向き直って互いの強さを誉めあう。「景清どのの、腕の骨こそ強かりき。」「三保の屋どのの、首の骨こそ強かりき。」。

紫波町日詰一番組令和元年

 戦前の盛岡で鉈屋町め組が山車に採り上げ、八幡宮山車資料館の壁面に当時の絵紙が貼ってある。相手は鎧兜の武者姿だが景清はどてらのような衣装で、現在の題材で言えば『碁盤忠信』(つぶしを踏んだ形)のような実戦・芝居折衷の演出であったように思える。日詰の一番組ではこの構想を踏襲しつつ(例えば相手の刀が折れている等)景清にも鎧を着せ、武者ものの山車に仕上げた。もぎ取っている錣が半分兜に繋がりつつぐにゃりと歪み、配置の工夫でこれを綺麗に見せた点が素晴らしい。
 沼宮内の愛宕組では『悪七兵衛景清』という題を大正初期および平成18年に出しているが、これも錣引の一場面と思われ、前者の姿はまさに鉈屋町が出した錣引の景清そのままである。ただ、いずれの作例も薙刀を持っているだけで兜は掴んでおらず、大薙刀が景清を示す重要な小道具であることだけを物語っている。

他地域】秋田の角館では、同じ年に歌舞伎風・武者風2通りの解釈で出たことがある。錣でなく兜ごと、景清・あるいは相手方が手にしている構図であった。ねぶたでは下北の大湊で、引きちぎれた兜の紐まで表現した錣引の人形ねぶたが出た。
 郷土芸能では、能の「屋島」の一部をわかりやすく抽出した幕神楽の演目がある。岩手では早池峰神楽の武士舞『屋島』の後半で錣引の物語を謳うが、装束・採物不変であったりして再現度はあまり高くない。青森八戸の鮫神楽・白銀神楽ではもっと具体的に・だいぶわかりやすくしていて、前者では五月人形のような具象的な鎧姿で演じる。


(ホームページ公開写真)

沼宮内愛宕組『風流 悪七兵衛景清』  神楽の錣引



本項掲載:(他系統)秋田県角館町の飾山・日詰一番組R1



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錣引 日詰一番組(本項) 盛岡め組 日詰一番組

盛岡め組
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本項掲載:秋田県仙北市角館H30

(音頭)

(しころ)捥ぎ取り 威勢を上げる 声ぞ景清 世に響く
三保
(みお)の錣を 普門(ふもん)の力 引くや景清 壇ノ浦
屋島戦場
(いくさば) 組み討つ壮者 称す互いの 剛と剛

悪七兵衛 大太刀佩いて 忍ぶ奥山 東大寺
たいらの重鎮 景清勇み 悪七兵衛の 名を残す






「壽三升景清」日詰上組平成30年

4、壽三升景清

 成田屋歌舞伎十八番の中で景清が登場するのは、「景清」「解脱」「鎌髭(かまひげ)」「関羽」「七つ面」である。平成26年の新春花形歌舞伎にて、当世市川海老蔵がこのうち4つを合わせた「通し狂言」を披露した。題は「壽三升景清(ことほいで みますかげきよ)」と付けられ、三升とはひとつは芝居小屋の最前列に置かれる升席のこと・もうひとつは団十郎家の四角を重ねた三升紋をさし、両者を掛けている。
 展開の詳細はここに書かないが、佳境はやはり牢破りであるらしく、その際のいでたちは平家の赤に黄色の仁王襷を合わせ、化粧は紅の筋隈取、胸や腕にも隈が入る唯一無二の絢爛さである。正月らしく豪華な宴席に巨大な伊勢海老が据えられ、ここに景清が現れて鏡餅(かがみもち)の上で見得を切る姿が各種メディアに採り上げられた。
 盛岡地域でこの歌舞伎を最初に山車に作ったのは、日詰の上組である。おそらく上記のたった一枚の写真から構想した山車であろう。盛岡型に切り取るにあたって海老は省き、足元の餅はほぼそのまま写して人形を高く上げた。音頭歌詞の大半は牢破りについて歌っているが、1つだけ本題材の眩いまでの舞台について描写したものがある。


山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 保管資料(写真) 絵紙
壽三升景清 日詰上組
青森ねぶた『三枡景清分身不動』
山形県新庄市
青森三戸山車『壽出世景清』
日詰上組(手拭)
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本項掲載:日詰上組H30

(音頭)

格子掲げて 剛勇ふるい 三升(みます)に景清 見得を切る
怒る景清 堅牢
(けんろう)やぶり 歌舞伎成田屋 三升紋
平家再興 みずから縄を 受ける景清 歌舞伎見得
成田屋十八番の 景清歌舞伎 三味線
(しゃみ)の音色で 幕を引く

 


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