私はこうして山車好きになった

下組を通して夢見た一戸の山車

(日詰下組の記憶)

 

『うらしまたろう』平成4年下組見返し

(お知らせ)
 本文中で触れている「私が子供の頃の下組の笛」を、下記機会に音源公開いたします。

 岩手県立博物館日曜講座「県博で山車を見る会〜2014いわて山車まつりハイライト〜」
 2014年11月9日(日)13:00 岩手県立博物館講堂(盛岡市上田松屋敷34)


 日詰の下組は、私が子供の頃から一番好きだった山車組で、一戸の橋中組から飾り一式を借りています。

一戸と日詰の間を行き来するのには列車で2時間かかります。今は何でもありませんが、幼少期は車酔いするやらなにやら、とても気軽に出かけられる場所ではありませんでした。だから平成9年までずっと、一戸は憧れの場所でした。

下組の山車は常に珍しい演題で、それでいてすごく面白いものばかり。とりわけ子供の頃のお気に入りだったのは、化け物を使った演題。マントヒヒやクモ、蝦蟇などが凄みを主張しつつもどこかコミカルで、愛玩的な味を湛えているのが子供心に馴染みやすいものでした。他にも、金札の無い独特の色の桜であったり、紅白の表札であったり、いろいろな「下組独特のもの」がファンタジックな山車の雰囲気を盛り上げていて、下組の山車を一台、また一台と迎えるうち、「ああ、一戸に行きたい」という気持ちはどんどん募っていきました。

●昭和62年 岩見重太郎ヒヒ退治

 子どもの頃に見た山車の印象は大人になった今も鮮明で、きっと実物以上に素晴らしいものに映ったのではないかと思います。製作者は失敗作と照れ笑いするある作品が、自分の心に一番よく残っている「憧れの一戸の山車」でした。剣豪岩見重太郎が人身御供の娘に化けて棺おけの中に入り、神主に化けた大猿を退治する『岩見重太郎狒々退治』。らんらんと目を光らせる大きな猿の人形、毛並みの白と肌の赤さの対比、背景の社殿の作り、重太郎の衣装…。すべてが大好きで、かなり長い間この山車の写真を大事に取り出しては、「よい山車だったなあ」と懐かしんでいました。話を知らなくてもマントヒヒのインパクトで誰の目にも面白さが伝わる、というのがよいです。「話を知らなくても、誰の目にも面白さの伝わる山車」。自分の山車を見る目に大きく影響した作品でした。(写真

 

妖気ただよう (やしろ)(もり)に 白き魔性(ましょう)の 狒々を討つ

剛も気高く 狒々をば討ちて 剣は岩見の 名ぞ高し

 

●昭和61年 本能寺の変

赤い擬宝珠の欄干を跨いで、白い着物に髭を生やした明らかに殿様と知れる人物が槍を構えています。「白い着物は寝巻きらしい」「欄干の下には鎧武者がいて、殿様は鎧武者と戦っているらしい」これはどういう場面なのか。傍らの父に尋ねた幼い私は、家来に殺されてしまう哀れなこの人物に大変興味を持ちました。思えばそれが、自分が歴史を好きになった最初だったように思います。

私は山車を通して歴史好きになりました。歴史好きになったおかげで、これまでずいぶんと助かったことがありますし、こうして終生山車を楽しめてきたのも、歴史好きであるという要因が大きいかもしれません。目の前に現れる一場面は、時の流れの断片です。其処に因果というものを肉付けしていろいろと空想をめぐらせ、史実と史実の間を埋めて、そこに物語をつくる。音頭上げの文句が其れに共鳴する時もあるし、共鳴しなければ、拙くてもよいから共鳴するように自分で作ったりする。目に見える以外に、山車の後ろで光背のように輝く美しさを結ぶ術を、きっと私は本能寺の山車から習ったのでしょう。

 織田信長という人物を山車を通して知ることができたので、私は歴史好きになりました。寝巻きを着てお寺の欄干から槍を差し出すちょんまげ姿の殿様。『本能寺の変』の信長は「油断大敵で家来に殺された」という強烈なエピソードとともに、自分の脳裏に焼きついて離れませんでした。その後も歴史の教科書やテレビの時代劇、いろいろなところで信長に出会い、本能寺という場面がいかに劇的に描かれているか学んできました。それでもなお、本能寺の場面をもっとも適切に、もっとも物語性豊かに描いているのは、子供のことに見た下組の山車のような気がしてならないのです。(写真

 

()しき運命(さだめ)よ 信長公は 恨み尽きせぬ 本能寺

闇の黒さか 謀反の影か 妖雲ただよう 明智勢

 

●昭和60年 真田幸村

真田(さなだ)幸村(ゆきむら)も山車で学びました。「山車に出てくるのだから、幸村は無条件ですばらしい武将なのだ」と思いました。大坂夏の陣で、負けそうな戦なのに必死で戦って、最後は家康の首をあと一歩で取れるところまで行った。高校や大学で「幸村がこのとき家康の首を取っていたら日本はまた内乱になって、そんなこんなで混乱しているうちにきっと西洋の植民地にされてしまっただろう」と自分なりに考えるようになりましたが、それでもなお幸村が大好きで、その生き方がとてつもなくかっこいいと思えるのは、やはり山車を通して幸村に出会ったからだと思います。(写真

 

知勇優れし 幸村なれど 運命はあわれ 夏の陣

血煙(ちけむり)上がる (ちゃ)(うす)の陣に 無念家康 討ち漏らす

 

 

 下組の雰囲気のよさというか、幻想的な雰囲気を生み出していたのは、独特の笛のメロディーでした。この笛は一般的な盛岡山車の大太鼓にあわせる笛ではなく、笛だけ独立してまったく独自のメロディーを繰り返し奏でるというもので、それがいつのまにか全体に調和してしまう不思議さがありました。どこか悲しい、それでいて大変美しい曲でした。非常に残念なことながら、この笛は平成8年をもって途絶えてしまい、翌年から日詰の3つのお囃子の長所をとったとする新曲が使われるようになりました。

というのも、後継者を作ること自体無謀であるような超難関の技術を要するため、私が生まれたあたりにはもう生演奏ではなく、カセットテープに録音したものを流すという形式をとっていて、それがこませに下組の囃子方の自尊心を傷つけていたようなのです。が、やはり個人的には、あのお囃子があってこその下組だったため、何とも惜しいなあと機会あるごとに訴えています。いずれ下組の情緒というのはそういう異色の演出によって貸出先の作風を引き立てた点で優れていたのであって、橋中組にとっても、下組というのは山車を本当にいい形で生かす借入先として大切だったと思います。

 

●下組の見返し

 私が子どもの頃は、キャンペーンでも張っていたのかと思うくらい見返しは手抜きのものが多く、マネキンに塗装しただけの間に合わせ人形が乱立していました。そんな中での下組の凝った見返しには、いつも感動と憧憬のまなざしを向けていた記憶があります。沼宮内で見た変わった印象の鯉掴みの演題『(おと)(わか)(まる)』がそのまま翌年の見返しに登場していたり、「梵天(ぼんてん)(まる)もかくありたい」などと大河ドラマでおおはやりした見返しが出てきたり、とにかく色んな工夫がされていて好きでした。後々はこれにからくりが加わるようになるのですが、まあ、それはもう少し紹介を進めてからお話しする事として、下組の雰囲気を作る独特なもの、もう2、3つばかり紹介していこうと思います。

 

●下組の源平もの

 表札。白地を赤で囲う独特の色調がまた、下組の山車の雰囲気に大変よく合うのです。特にも源平ものなんかでこれをやられるとたまらない。高貴なイメージがあり、どこか繊細で、はかなさを感じさせてくれるのかもしれません。平成2年から4年にかけては源平シリーズが一連に構成されていて、私自身これ以上にいろいろな場面が出てくるのではと期待していた記憶があります。

昔話の名場面。京の五条の橋の上に夜な夜な現れる怪僧、999本の刀を奢る平家から奪って憂さを晴らす武蔵坊弁慶。1000本目の刀の持ち主は女の衣をまとい、笛を吹いて向こうからやってきた。卑怯者と言うが早いか、襲い掛かる弁慶の薙刀をひらりとかわして牛若丸、手にした扇を荒法師の額にパッと投げつける。牛若丸、亡き源義朝の八男、源氏の御曹司。身の丈何倍もある法師に物怖じもせぬ腰の据わり方、鋭敏な機転、平家を倒すにはこの方しかいないと弁慶は頭を下げ、ここに義経弁慶の伝説的主従が誕生する…。弁慶の七つ道具など、小道具のすばらしさ・面白さ。五条の橋はじめ、小道具に劣らぬすばらしい大道具。人形のよさもさることながら、これらの名脇役達が何倍もこの山車をよく見せています。(写真

 

切り込む弁慶 ひらりとかわす 牛若丸の 身の軽さ

迫る笛の音 月影冴えて 躍る五條の 荒法師

 

 平成2年は那須与一と扇の的。屋島の沖に船を並べる平家方、その一艘に立てられた高竿、虚空にゆれる扇。源氏の大将義経は若干17歳の弓矢の名手、那須与一宗高を呼んで船上の扇を射落とす趣興を命じます。射損じれば切腹の覚悟、鏑矢を番える与一の弓は、波に押し合いへし合いする中でゆらゆらと定まらぬ扇に惑います。南無八幡大菩薩、一時波を鎮めたまえ。その声が届いたのか、一瞬の凪を突いてヒョウと与一の鏑が風の如く扇の要を射抜く。「よう射たりや」屋島の沖は敵味方関係なしの賞賛の渦に包まれるのでした。平成14年の作品と合わせて、下組特有の情緒的な表情が与一の姿をありありと観客の心に描く名作と思います。(写真)平成3年には一体ものの義経八艘跳びが出、これも鎧の色調がすごくよかった記憶があります。(写真

 

屋島に馨る 源平絵巻 扇の的は 浪と散る
的は玉虫 恋路にかけて 弓は与一の 鳴り鏑

 

 

 山車を彩る桜の花にも、他と比べて異質な、大変魅力的な色使いがされておりました。昭和60年までは桃色と芯を染めた赤、翌年から平成元年頃までは、なんと黄色い桜が使われました。これは奇抜なようでいて、案外いい色調を山車に与える抜群のアイディアでした。平成2年から平成8年までは、濃いピンクと薄いピンク、赤という3色のグラデーション。異なる色、異なる塗り方の桜を何種類か共用するというのが下組独特の飾り方でした。平成9年からは蛍光の赤色を使った布染めの枝垂桜になりましたが、いつかまた、往時のようなこんもりとしたグラデーションを下組の桜に見られる日が来ればなあと思っています。

 尚、複数共有という形は現在、最後に紹介する橋本組において盛岡か組系の形式に融合させる形で用いられています。逆に橋本組からは、有色蛍光灯というこれまた下組の雰囲気をがっちり支えるような工夫がもたらされており、やがてそれは日詰全域の味となっていきます。

 

 

●平成元年 一心太助

 大久保彦左衛門のたらい駕籠、一心太助の山車もありました。太助の半纏が蒼で、たらいが黄色くて、頭をちょこんと出した赤い鯛、彦左衛門の茶色い裃、色彩の大変豊かな山車でした。老人と青年、見慣れない取り合わせに小道具も珍しく、すごくインパクトのある山車が出来上がっています。太助の山車は盛岡でも作られて入るものの、盥に彦左衛門を乗せて登城する名場面は一戸の橋中組しか取り上げておらず、やはりここでも一戸山車のあふれる娯楽性に胸をときめかせました。思えば幼少期、何度となく下組の小屋の前で味わった感覚です。一戸に先乗りしてから日詰まつりを迎えるようになった今では、もう味わえない感覚です。(写真

 

度胸啖呵(たんか)に 男も惚れる 一心如(いっしんにょ)(きょう)の 心意気

粋な(たらい)に 太助と(ひこ)() 急ぐ二人に 花吹雪

 

 

●平成5年 源頼光蜘蛛退治

下組山車の誇る化け物演目のうちでもとりわけ白眉といえる頼光蜘蛛退治、蜘蛛の配色とユーモラスな表情が魅力的です。背景の黒で、手前の精巧に編み上げた蜘蛛の糸を浮き上がらせる工夫も素晴らしい。武者もバランス絶妙で大変立派です。近年、といってももう10年以上前の作品になってしまいましたが、頭の塗り方が現在のようなものになってからの一番の名作であるように思います。(写真

表にからくりを仕込んだのはこの作品が最初でありました。下組の山車の新たな見所として平成3年から登場した電動の「動く山車」という趣向は、この作品で蜘蛛の口と目を生々しく動かすという形に応用されます。口が閉じると目が光り、口をあけると目に光が消える。ただでさえ面白い化け物演目をさらにレベルの高いエンターテイメントとして。私にとっては、本気で下組に魅了された最後の作品となりました。(後日談:平成17年の『義経一の谷』で、実に12年ぶりに上記と同じような感慨に恵まれております。)

 

●平成7年 銭形平次(見返し)

 平成7年は紫波町彦部地区に野村胡堂あらえびす記念館が開館した年。それを祝って、見返しに銭形平次が登場しました。借入先の橋中組さんの心遣いだとしたら、本当に嬉しい一作です。顔がすごく良くて,見返しにするのがもったいないくらいですが、バランスのよさに加えて、やはりからくりが仕組んでありました。まさかと思ってフィルムを残さなかった自分が悔やまれる、いまだったらすぐ買いにいけるのに…。夜になると、銭を持っている方の腕があごの下まで戻っていき、銭に仕込んだ電球がきらりと光り、光線が一直線を描いて前方に放たれる。つまり「銭を投げる」わけです。これはアイディア賞でした。銭を投げるというすごく難しいテーマを見事に達成している名作でした。平成10年に出る『花咲か爺さん』と同じくらい才能を感じます。表はおなじみの四条畷で、この年を境に暫くの間、往時のような珍しい演題が見られなくなっていきますが、見返しには引き続き素晴らしい趣向が盛り込まれておりました。花咲か爺さんを頂点として、本当に観客みんなが下組のからくりを心待ちにしているように思います。毎年毎年、製作者の皆様のアイディアには脱帽させられます。日詰はじめ多くの借り入れ先、もちろん地元一戸においても、山車祭りを支える原動力として橋中からくりが非常に大きな役割を果たしているのです。参考にご覧になってみてください。浄法寺でも、葛巻でも、日詰でも、ちゃんと山車を見てきて書いているお祭りレポートには必ず「趣向を凝らしたからくりなど」と説明がされていますから。

 

 

 …というわけで、私がいちばん好きな山車組、日詰下組についてご紹介してきました。子供の頃は、8月の下旬、夏休みが終わったあたりから、学校が終わると毎日毎日、下組の車庫へ駆け込んでいた記憶があります。見たことの無いような、それでいてすごく面白い山車が日に日に組みあがっていく光景は、子供心にはまるで神事のように見えたのを覚えています。とにかく見たくて見たくてしょうがなかった。小屋へ向かう道すがら心の中に膨らんでいく期待を、目の前にした山車はけっして裏切ることはありませんでした。とにかく大好きだった。一瞬でも多くこの山車を見ていたいと思いました。お祭りの終わりの日、粛々と小屋へと帰っていく下組の山車を見て泣き出してしまったことも一回や二回ではなかったように思います。本来であれば,私がこれまで見てきた下組の山車すべて裏表で紹介したかったのですが、特に下組のホームページというわけでもありませんから、このくらいにしておきましょう。ここでご紹介したいくつもの名作をご覧になって、皆様が少しだけ今までよりも山車を好きになってくれれば幸いです。
 一戸に通い始めてからは以前のようなどきどき感はなくなってしまいましたが、やはり日詰には下組のエッセンスが欠かせない。あの彩色と、あの人形と、あのお囃子と…下組という一つの大きな渦が欠かせないように思います。日詰に下組という山車組がある限り、私のような山車キチガイがこれからも脈々と育っていくと思うし、山車祭りが本当の意味で日詰の娯楽でありつづけていくと思います。私に最高の娯楽のありかを教えてくれた下組の山車全てに、心からお礼を言いたい。ありがとう。

 

後記:

 旧「南部山車番付」の復刻は簡単そうに見えてなかなか大変なので、限られたものしか手をつけられないのが現状です。ここに掲載した下組の項は、もともと「その夜 不夜城の絵巻〜日詰山車 夜祭りの喧騒〜」に収めていたもので、私が気に入っている山車の写真を横に置いていろいろと話をするような形式に作っておりました。自分が山車を見ることのルーツにあたるようなことが執筆中いくつも思い出され、私個人の山車雑記としては一番良くまとまったと思っています。今回復刻に当たり、日詰大坪公民館(消防団第一分団第二部2階)に保管されている下組歴代山車写真を一部公開させていただくことといたしました。関係者の皆様のご協力に感謝いたします。ご覧いただく皆様には、まず文章から山車の様相を想像していただいて、あとに写真をご覧になって2度楽しんでいただきたいと、ひそかに願っております。

 

日詰まつり 各山車組と日程

日詰まつり 上組・一番組・橋本組・下組歴代山車演題

                         文責:山屋 賢一

 

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