盛岡山車の演題【風流 畠山重忠】
 

畠山二郎重忠

 



盛岡市本宮な組昭和59年

 源平合戦鵯越の逆落としのとき、大将源義経の号令で武者たちが次々と駆け下りていく中を、独り歩み出せずにいる武将がいた。馬が坂を怖がって、下ろうとしないのである。馬の主は「臆病者」と一喝、あわや馬を斬り殺すのかと家来衆が心配して見ていると、何と鎧の上から乗馬を背負い、腹帯を肩にくくって担ぎ上げてしまった。馬の主はそのままのしのしと崖をくだり、谷の平家に果敢に攻めかかるのである。
 畠山重忠(はたけやま しげただ)はもともと源範頼の武将として平家討伐に参陣したが、義経の一ノ谷奇襲の策に感銘を享け、請うてその旗下に加わったとされる。彼が愛馬を背負って鵯越を駆け下った話は、一方に坂東武者の不屈の精神を示しつつ、他方に自分に仕える者へ深い慈愛と優しさを今に伝えている。

岩手町川口下町山道組平成24年

 盛岡地方の山車では逸話をもとに、馬を背負った鎧武者の立ち姿として重忠を作る。馬は前半分だけ作り、前足2本を武者に引っ掛けて背負った形に見せる構想が多い。高さの調整が難しく、重忠と馬の双方をいかに大きく見せるかが上手な山車のポイントである。足元や背景に切り立った崖を作るのは岩手町の重忠に多く、いわば下り始めの姿。一戸では足下に平家の赤旗を踏み据えて背には源氏の白旗を率いる趣向が見られたが(写真3)、いよいよ戦場に現れた馬背負いの重忠が敵軍を驚嘆させているイメージであろうか。背負うための襷(たすき)の描写も各組の工夫が見える。ねじれた椎の木を杖についている場合が多いが、両手で手綱や馬の前足を持つかたちもある。駆け下る躍動感を出そうと片足を跳ね上げたり、そもそもの設置位置を高くして足下に崖を見せるような工夫もあった(写真2)。
 沼宮内の新町組は馬を横向きにして重忠の背後に丸ごと見せ、錦で馬に目隠しをした。同町のろ組も後年、ほぼ同じ構想で取り組んでいる。

一戸町野田組平成27年

 ふつう重忠は角の付いた豪華な兜をかぶって甲冑を着ているが、一戸の小鳥谷で出た重忠の山車は、兜をかぶらないざんばら髪であった(写真3も同様)。盛岡山車以外で重忠を山車にする例は青森県に見られるが、当地ではこのような仕立て方の重忠が多く、青森ねぶたでは半身裸で躍動的に表現されたこともあった。
 盛岡以南ではまれな演題だが、県北部では割と作られる機会が多く、一戸では橋中組・本組・野田組、岩手町では沼宮内のの組が得意としている(一戸の橋中組と盛岡のは組が取り組んだ昭和40年代初頭が初出カ)。昭和59年には岩手町の山車組の協力のもと、重忠の山車が盛岡市本宮「六番組な組」の初奉納を飾った(写真1)。

 後世、頼朝亡き鎌倉で重忠は北条時政の横車により非業の最期を遂げるが、科無きことを多くの御家人たちが知っていて、その死を惜しみ時政の失脚につなげた。



文責・写真:山屋 賢一


山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
定型 盛岡な組(本項1枚目)
沼宮内の組
一戸野田組@A(本項3枚目)
軽米協誠団
川口下町山道組(本項2枚目)
沼宮内ろ組
盛岡わ組
一戸橋中組
盛岡は組(部分)・沼宮内新町組
一戸本組
一戸野田組
沼宮内の組(本項)
小鳥谷に組
一戸野田組@A(香代子)
川口下町山道組(山屋:色刷り)
盛岡わ組

(複写)
一戸橋中組
一戸本組(香代子)

(写真)
盛岡は組
盛岡な組
横背負 沼宮内ろ組 沼宮内新町組
青森野辺地
沼宮内新町組
ご希望の方は sutekinaomaturi@outlook.comへ/掲載4枚目:青森県八戸市三社大祭山車・5枚目:岩手県二戸市の平三山車

(ホームページ公開写真)

沼宮内ろ組@ 軽米協誠団 沼宮内ろ組A 盛岡わ組 小鳥谷野中 盛岡な組

(音頭)

孤城落影(こじょう らくえい) 十万余騎(じゅうまん よき)の 肝おどろかす 逆落とし
秩父
(ちちぶ)の若武者 重忠(しげただ)勇士 源氏の先陣 一の谷
愛馬三日月
(みかづき) がっきと背負う 武勇無双の 畠山
(やま)を駈けるは 疾風(はやて)か雲か 重忠奇襲の 逆落とし
勇士重忠 鵯越
(ひよどりごえ)を 愛馬背負いて 駆け下る
愛馬背負いて 鵯越に 威風堂々
(いふう どうどう) 大鎧
愛馬三日月 重忠背なに 断崖下降
(げこう)の 武者姿
鹿もたじろぐ 切り立つ崖を 馬を肩にし 降りんとす
武勇無双の 重忠公が 鵯越の 逆落とし
(けわ)しい峪より 背負いて降りし 豪傑重忠 一の谷
智将重忠 源平絵巻 鵯越の 逆落とし
人馬一体 不屈の魂 懸けて攻め込む 一の谷 【山屋作詞】

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青森県八戸市
岩手県二戸市
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